民の政治学よ、どこに


2006/10/20(金) 18:14:19 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-285.html

こういうことを書いていいのか、よく解らないんだけれども、常日頃思っている漠然とした不満と言うか、不安と言うか、やりきれなさと言うか。


私の先生はいつも、我が大学の政治学は「官の政治学」ではなく「民の政治学」である、ということを強調する。私はその理念にとても共感するし、そういう場で学べていることを嬉しく思うが、果たして今現在その実態が伴っているのか、といつも疑問に思う。


「民の政治学」であるというのは、政治学分野の科目が法学部や政治経済学部などではなく社会学部に存在し、多様な社会学分野の科目と併せて学ばれるべく構成されていることに根拠がある。官僚養成を主目的とする他の大学と異なり、政治主体として成熟した市民を養成することに主眼があるというのだ。それは、元々官界ではなく在野に優秀な人材を送り込む役割を自認してきた大学全体のカラーが背景にあるし、直接には社会学部自体の成り立ちの歴史に深く関わっている。


確かに、社会学部の中で政治学が学べるというのは利点であると思う。例えば、政治学と同じコースにあるということになっているスポーツ社会学や教育社会学の科目を採って、身体に関わる政治性について考えたり、知の権力性や成熟した市民の養成方法について見識を深めたりすることが一見できるように思える。いや、確かにできる人にはできるだろう。でも、科目編成などを眺める限り、予め明確な問題意識を持った人でなければ、そういう学び方をできるようにはなっていない。近代的な政治主体を育成したいのであれば、せめて政治学・スポーツ社会学・教育社会学の教員が各数回ずつ担当するリレー講義があってもいいように思うが、そういうものもない。この三分野が同じコースとされていることの実践的意味を実感できている学生はほとんど存在しないはずだ。


いや、そもそも大学そのものがコース毎、学部・学科毎の壁が高くないから、全体で有機的に連結した多様な学問領域を学ぶことができるのではないか、と言う人がもしかしたらどこかにいるかもしれない。でも、本当にそうか?。確かにどの学部・研究科の講義でも大体採れる。しかしながら、少なくとも異なる学部同士での講義に関しては、有機的に結び付いているわけではない。結び付けるのは専ら学生側の自助努力だ。いや、そりゃそうだと、大学というのはそういうところだと言われるかもしれない。でも、どうかなぁ。少なくとも学生にこれといった(最大公約数的な)到達目標が無い社会学部では、各学問領域が学生の意識の中で上手く結び付かずに拡散しがちなので、もう少し結び付きを見えやすくする必要があるんじゃないか。具体的には大雑把なテーマを立てたリレー講義を常時数科目設けるぐらいしか思いつかないが。


少し政治学から離れたが、要するに「民の政治学」とは言うけれど、問題は先生の講義以外で同趣旨のことを聞いたことが無い、という点にある。そうした理念が、少なくとも一般の学生に見える形では分野内、コース内、学部内に共有されていないわけだ。じゃあ、数年後に先生が退任されたら、その理念は全く消え去るんじゃないのか?。私のもの凄く直近かつ現実的な不安はここにある。後任にもよるが、形式上の制度(社会学部の中の政治学という編成)は残るけれども理念は忘れ去られる、という危険性はもの凄く大きい。そうならないためには、理念が多少なりとも残っている内に具体的な制度として形にしておく必要があるだろう。


どうすればいいか。私は学際性を高めるしかないと思う。政治学の教員を増やすことは現実的には考えにくいので、学部間、学問領域間に現実に存在する壁をひたすら打ち壊していくしかない。具体的には、杉原泰雄から直系の憲法学との連携が最も必要性と現実性が高い。「地球市民社会」とか言いたいのだったら、比較的レベルが高いはずの国際関係論プロパーの人たちをもっと引き込む必要がある。高島善哉から直系の経済社会学や思想史との連携も…、と言いたいところだが、これは今や具体的に誰と思いつかない。個人的には「政治思想史」が専門の教員が別に要る気がする。あと、社学系の人たちは憲法は割りと自分で学んでいる一方で法哲学には関心が薄いように見えるが、「政治哲学」ばかりじゃなくて、もう少し分析的な「法哲学」も多分重要だよ。他の実定法や経済・商の教員や伝統についてはよく知らないが、きっとそれぞれに「民の政治学」との(本学ならではの)接点はあるはずだ。もちろん、学部内の国際社会学や地域研究、社会政策、社会心理学その他諸学との連携も重要なのは言うまでも無い。


結局何でも重要なんでしょ、ということで終わらないために、実際に「市民社会政治学」としてリレー講義を組むとしての案を考えてみよう。全十二回として、一、二回目は政治学教員による近代政治思想史。主にホッブズ、ロック、ルソー。三、四回目は憲法学教員による立憲主義国民主権、人権論。五回目、六回目は法哲学教員と民法学教員を呼んで法思想史と近代市民社会の法原則を話してもらう必要がある。ここまで前半で、近代市民社会の成立と原則を一応理解してもらう。後半は主に各分野の現代的問題ということで、七回目から十一回目まで、国際関係論、国際社会学、社会政策、教育社会学社会学など各分野教員による。社学を主に挙げたが、状況に応じて他の実定法や経済・商の教員にお願いしてもいいだろう。個人的には刑法や企業社会論など面白そう。最終回は一応政治学教員が締めるということで、現代の市民社会論、公共性論など政治哲学的話題と現実的・政策的話題を併せてリファーしつつまとめられれば望ましい。


以上はもの凄く個人的な願望と偏見が入り乱れたものになったかもしれないし、学部科目というより教養科目的になったかもしれない。別に教養科目でもいいのだが、なぜこういう明確な目的を持ったリレー講義がほとんどないのだろうか。言いたかないが、タコツボ、タコツボ。はじめから研究者志望で入学してきた学生でない限り、自ら計画を立て、一貫した方向性に基づいて履修・学習するのは(特に社会学部などでは)難しい。履修ガイドとかを作ったり、色々(今更な)努力をしているのは分かるが、カリキュラム自体をより啓発的、伝導的(?)な設計にする必要がある。この大学なりのカラーや学問的伝統がもっと一般の学生にも伝わるようにしてほしいと思う。そういう意味では、大学論をやる講義を設けたり、「社会科学の基礎」的な講義をもっと強化する必要がありそうだ(ま、こういう講義、入学当初にはえてしてウザイものだけど)。


基本的に市民社会派とか近代主義に対して批判的なことばかり言っている私が「市民社会政治学」を守ろうとするのは、あるいは奇異に見えるのかもしれないけど、私にも、かなりねじれた形になるとはいえ「市民社会政治学」的な問題意識を受け継ぎたいという気持ちはあるのよ。常に基礎基本の欠如を感じているけどね。

コメント

実はこんなのもあるんです。
http://www.josuikai.net/josuikai/21f/59/wt/wt.htm
大塚金之助、高島善哉の「一橋系の市民社会派」の経済思想、社会思想をかなりひいきめに養護してます笑 ここらへん、ちょっと興味あるんだけど、さすがにフォローできないし。よろしく頼むよ笑。高島の後には。水田洋や平田清明が続いているわけでしょ?ちなみに高島世代には大田可夫というのもいるらしい。一橋以外では内田義彦が高島の影響をけっこう受けてるとか。さらに高島・大田の先生方には鎖左右田喜一郎とか福田徳三とかいるから、そこらへんから当たるといいのか?


確かに、大塚(久雄)・丸山・川島(こっちも私はよくわからないけど)とは東大系とはけっこう毛並みが違うっぽいよね。


ちなみに社会学部でこの伝統を明確に意識してるのは渡辺雅男以外に誰かいるか?哲学のほうにややいるのかな。かくいう渡辺雅男も、この伝統を引き継ぐような思想研究をしているわけでは全くないし。でも確かに渡辺氏が言及しているT.H.マーシャルやマクファーソンは、東大市民社会派よりも一橋系のほうが折り合いはよさそう。まぁ私は渡辺氏のように「一橋の伝統」としてなわばり意識を煽るのはちょっとみっともないと思うけど。


ちなみに経済学部では、経済学史のほうで、西沢保とか、小峰敦とかが、こういう経済思想・社会思想の伝統を引いているらしいね。小峰敦編『福祉国家の経済思想』は一橋出身の経済学史家が執筆者の半分以上を占めていて、なんとなく雰囲気は伝わる笑。


ここらへんと連帯すれば、それなりに面白くて独自色のある経済思想・社会思想の連続講座とかできるかもしれないのにね。なんていうか、商売っけがないよね。。。それぞれ自分の研究紹介・研究材料の紹介みたいな講義ばっかりしてて、あれじゃあ学生がかわいそうだ。まぁ「自分でやれ!」が社学の哲学なのかもしれないけど。基礎学力・基礎知識はやっぱり大学が育てないとね。カリスマ性のある先生がいるわけでもないし。社学の院生って、みんな何をよりどころに研究したらいいのかわからなくて、右往左往してるイメージあるよ。
2006/10/23(月) 13:20:26 | URL | dojin #- [ 編集]


いやぁ、私も思想史をしっかり押さえている余裕はどんどん無くなってきているので、頼むのはどうか他を当たってくださいな。平田の晩年の仕事にはグラムシアンであるうちの先生の影響があるという話も聞いたことありますが…、よくわからない。


なわばり意識の弊害というのは確かに大きいと思いますが、それを嫌って有意義な伝統まで押し流してしまうのは惜しいので、まぁ後続世代としては上手くおいしいとこどりすべしということでしょうか。


あくまで印象ですが、社学では教員も学生も、(他学部に対する)一種の卑屈さと引き換えに世俗離れした(自由な)風土を手に入れているような気がします。放任主義は私もやりやすくて好きですけど、色々整備して選択肢を提示した上での放任とただの放任は違いますからねぇ。これから変わるのか、どうなのか…。いずれにしても狭い範囲でのなわばり意識はさっさと捨てて連携してもらわないと。
2006/10/23(月) 20:13:09 | URL | きはむ #- [ 編集]