神話が暴かれた後に何をすべきか


2006/10/29(日) 21:16:03 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-288.html

佐藤卓巳『八月十五日の神話』(ちくま新書、2005年)


終戦記念日は八月十五日である。日本政府がポツダム宣言を受諾した八月十四日や、降伏文書の調印が行われた九月二日ではなく…。気鋭のメディア社会学者の手になる本書は、この国民的「神話」が、メディアの思惑や政治状況と国民感情が絡まり合う中で、いかにして形成されてきたのかを、新聞・ラジオ・歴史教科書の緻密な分析によって明らかにする。


「神話」の成り立ちには、先の戦争をめぐる複雑な国民感情はもちろんのこと、天皇による玉音放送、お盆という民俗的伝統、高校野球の甲子園大会、丸山眞男の八月革命説など、多様な要素が関わっており、これら多くのピースを広い目配りで丁寧に拾い集めていく著者の記述は、それぞれの論点について思考を喚起するものがある。また、資料を収集し、その信頼性を精査した上で整理・分類を行い、それに基づく分析を積み重ねていくという方法において、本書はメディア研究の教科書としても非常に有用である。さらに、問題設定、方法論、論証、結論(+提言)がいずれも明確である点で、模範的な社会科学研究とさえ言えそうであり、社会科学の実践的入門書として中高生にも是非一読を薦めたい。テーマの一般性とそれほど難解ではない記述ゆえに、多少頑張れば十分通読することができるはずである。


ただし、それぞれの政治的立場から独特の距離を置いたメディア論的視角からの分析が一貫して冷静かつ的確である反面、最後の提言には政治性の不足ゆえの難を見出すこともできそうだ。八月十五日をお盆=戦没者追悼の日、九月二日を終戦=平和祈念の日、として役割分担を行うべきとする著者の案が現実のものとなれば、おそらく八月十五日から政治性が排除されて内向きな性格が強まるとともに、慰霊を済ませた後の二週間余りの間隔が忘却の促進と感情の弛緩に機能することで、活発な政治的議論が行われにくい環境が作り出されることだろう。翻って、たとえそれが「虚妄」の産物であるとしても、慰霊も、平和祈念も、顕彰も、抗議も、種々の感情と政治的主張が入り乱れる一日が存在するという事実には、やはり独特の意義がある。それゆえ、何らかの解決を模索して具体的提言を行う著者の姿勢は評価に値するものの、提言自体は(ときに解決不能性をも意味する)「政治」に十分な地位を与えない、ややお行儀の良すぎる議論と言えないこともない。


とはいえ、戦後六十年以上が経過して戦争体験者が減少していく中で、今後十年、二十年先の追悼と平和祈念のあり方を考えようとするならば、やはり従来型の政治的一日に固執する態度は見直すべきなのかもしれない、との思いも抱く。自国の戦争の経験を語り、教えることには非常な意義があるとしても、七十年前、八十年前の出来事を「経験」として語り継ぐことには自ずから限界がある。経験を語り継ぐ従来型から、より近時の他の戦争や戦争一般を素材に用いる方法に比重を移すなど、何らかの新しいあり方へと、不可避的な過渡期が既に到来していることを認めないわけにはいかない(それが従来的な「語り」やプロテストの声を軽視することになってはならないことは当然である)。こうした観点からすれば、八月(あるいは九月?)の新たなあり方を模索する上で、著者の提言がともかく一考に値するものであり、議論の土台を部分的にせよ提供するものであることは、疑うべくもない。


八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)