stakeholder justiceへ


2006/11/26(日) 17:01:23 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-294.html

これまで、刑事司法についていくつかのエントリを書いてきた。日付順に並べると、以下である。


犯罪被害者保護に一考
刑法についての試論
修復的司法批判メモ
刑法39条を擁護してみる


刑事法一般についての私の考え方は④に書いた。②を書いたときに、書いた直後からこれは酷いなと自分で思っていて、それからかなり後になって書いた④はそれなりにまとまっていてだいぶマシになったと思うので、現時点での公式見解は④に書かれたものと考えてもらいたい。


全然勉強不足ながら刑事司法にはずっと興味を抱いてきたのだが、どうやらこれからも集中的に勉強する機会が無さそうなので、今まで書いたことを軽く整理して、区切りをしておきたい。本当は、修復的司法の他にも責任能力論や少年法、犯罪者処遇など色々勉強してみたかったので、残念と言えば残念なのだが、まぁこの分野は私がやらなくてもいいでしょう。


さて、ハワード・ゼア『修復的司法とは何か』(西村春夫ほか監訳、新泉社、2003年)をようやく読めた。この本は従来の「応報的司法」に対して「修復的司法」を対置していくという主張を展開しているわけで、私も基本的に、これからは修復的司法の観点から制度設計を行っていく必要があると考えている(修復的司法の基本的な考え方についてはこちらを参照)。それは応報的司法に代わって、という意味ではなく、応報的司法と並行して、という意味である。④で書いたように、純粋な応報刑などは無意味なのだから、刑罰というのは結局は何らかの目的刑に帰着せざるを得ない。ただ、応報的性格を完全に払拭することは困難だし、それは望ましくもないだろう。だから、応報的司法と修復的司法が相互補完的な形で両立するべきなのである。


修復的司法の観点が強調されることで、加害者を赦さない被害者への社会的圧力が強まってしまうのではないか、という危惧もあるようだが、それは制度的な選択可能性を確保することで解決すべき問題である。赦しを強いることなど決してあってはならないし、加害者と接触したくないという被害者のニーズは尊重されるべきである。ただし、当然、加害者と会って話をしたいという被害者のニーズも尊重されるべきであって、一方のニーズのために他方のニーズを犠牲にするというような話であっていいわけがない。ニーズに応じて応報的司法プロセスか修復的司法プロセスかを選択可能であることが重要なのである。修復的司法の考え方の中で、被害者や加害者のニーズを中心に据えるという観点を核として考えるとすれば、そういった選択可能性の確保そのものが広い意味での修復的司法の理念に適っている(それはもう「修復的」と呼ぶべきじゃないかもしれないが)。


そういう利害関係者中心の司法プロセス全体を修復的司法であると考えるとすれば、修復的司法プロセスは、基本的に民間主導で運用していくべきだろう。もちろんオフィシャルな機関が全く関わらないという意味ではないが、メディエーションやケアといった役割は、市場的にせよ非市場的にせよ、民間で担えるだろう。政治プロセスにおいても最近は行政機関の仕事をマネージメントや調整に求める考え方が勢力を増しているが、司法機関もその線で考えていかなくてはならない(大きく言えばその線で裁判員制度や民営刑務所などが出てくるわけだが)。こうした考え方は、①で書いたように被害者保護を国家主導の受動的なものとして捉えるべきでない、という考えと繋がっている。被害者保護も修復的司法の枠組みで捉えることができるが、これからは「保護」と言うよりも「関与」を求めていく考え方にシフトしていかなくてはならない(もちろんそれが関与を強いることになってはいけないが)。


もちろん民間主導と言っても、藤井誠二が危惧するように一部の「篤志家」が中心的役割を担うようなことであってはならず、きちんと制度化する必要がある。宮台真司が警告しているような国家が修復的司法を隠れ蓑にして加害者の拘束を強めたり内面に介入したりするような危険も、国家の役割と民間の役割が明確化されていないところから生じるのではないだろうか。それから、修復的司法は「修復」のためにコミュニティの積極的な関与を求める面があって、ここから前近代的な介入が危惧されることもあるだろう(ゼアもコミュニティや教会の役割を強調している)。コミュニティの関与が必要とされることはあるだろうと私も思うが、社会的・地域的特色によって、コミュニティの関与が重要でない場合もかえって有害な場合もあるだろう。だから、私はコミュニティよりも第三者的なメディエーターが大きな役割を担うべきだと思う。これには、法的制度によって役割を明確化することと、専門的なメディエーター業界の発展が必要だ。


まぁ、ここでは司法の話なのでわざわざ専門的なメディエーターと言うまでもなく、実際にさまざまな専門的職業人や団体がいるだろう。私が今更言うまでもないのだろうけど、修復的司法を考えていく上では、ADR(裁判外紛争解決)の取り組みと議論が参考になるはずである。調停や和解に関しては民事訴訟の側に研究蓄積が豊富なはずだし、以前その方面の本で見かけた、裁判による紛争解決プロセスとADRプロセスとの関係のモデル化などは、応報的司法と修復的司法の両立化を考えていく上でもかなり参考になりそうだ。まぁもとより修復的司法は犯罪被害の民事賠償についてもカバーしているのであるから、これは本当に素人の余計な口出しだったかもしれない。ついでに言っておけば、②で書いたが④では全然触れなかった損害賠償方式も修復的司法の枠組みに組み込む形で運用されていくべきだと思う。


(余談だが、ADRなどとも関わって法社会学の本を読んでみると結構面白い。現代の法社会学というのは、近代的な法原則に則った思考法とポストモダンなアプローチが縦横に交差するような議論が展開されていることが多く、なかなか興味深い。有名どころで棚瀬孝雄とか和田仁孝とか。)


ともあれ、こうやって話を進めていくとつくづく思うのだが、こういう話はやっぱり裁判制度や犯罪者処遇の問題なども含めて総合的に考えなければならないのだ。死刑の存廃についても、本来はそれだけ取り出して話せることではない。私はそこまでカバーできないので、この程度の内容でお茶を濁して撤退することにするが、この分野の専門研究者や現場の方々は利害関係者中心の司法制度が実現するように是非尽力していただきたい、と無責任なエールを送らせていただく。


修復的司法とは何か―応報から関係修復へ

修復的司法とは何か―応報から関係修復へ

TB


司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1