Aを超えるA


2006/11/16(木) 22:01:20 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-292.html

稲葉さんの長いエントリから、抜粋。


 かつての古典的な左翼は、それこそ杉原泰雄がそうであったわけだが、どちらかというと反ないし非・立憲主義的な立場をとっていたわけであり、それは今日のいわゆるラディカル民主主義論者たちにも、またハーバーマスの影響を受けた熟議民主主義deliberative democracy論者たちにも受け継がれている。ただし今日の左翼の多くは、ポストモダン状況下における人民の同質性、合意の可能性についてかつてに比べてそれほど楽観的ではない。それゆえ松井の共和主義とも相通じる、和解不能な敵対性をはらみつつ、なおその敵対性を暴力へと転化させない仕掛けとしての民主主義を肯定する、闘技的agonal民主主義論を提唱する者(シャンタル・ムフ他。ハート&ネグリマルチチュード論もここに入れてよいかもしれない)もいる。彼らはいずれも、自己の内在的制約以外には服さない民主主義が、社会全体を覆いつくすことは原理的には可能であり、またそれはどちらかというと望ましい、と考えている。


 このような広い意味でのラディカル・デモクラシー構想は、残念ながらここで論じたようなタイプのリベラリズムとは根本的なところで相容れない。ここに述べたような意味でのラディカル・デモクラシーは、突き詰めるならば(我々の理解する)長谷部的なリベラルな社会の憲法秩序を否定せざるを得ない。何となれば、ラディカル・デモクラットたちは、たとえ非暴力路線をとろうと、語の正しい意味で「革命的左翼」なのである。とはいえ、「相容れない」とは言っても、物理的に排除されるわけではもちろんない。ここでのリベラリズムの立場からすれば、ラディカル・デモクラットたちに対して言えるのは「私的な趣味、純然たる学術上の関心から、大いに論じてくれ、仲間内だけのことなら、実行してもかまわん――ただし公的に――無関係な他人を否応なく巻き込む形で――実行しようとするな」であろう。ラディカル・デモクラシーは私的領域と後はせいぜい学界、言論界に封じ込められるのだ。


http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061115/p1


市野川『社会』への少なくとも「部分的回答」にはなっていると私は思うが…(あるいは「潜在的回答」がより正確かも)。それにしてもがっちりと大森秀臣『共和主義の法理論』の守備範囲なので、興味を持たれた方は大森本へお進みになることをお薦めする。大森は憲法の話はあまりしていないが、そのロールズ批判はほぼ長谷部批判に横滑り可能だと思った(本人は多分想定しているのだろう)。


長谷部・杉田『これが憲法だ!』は通読の限り、それほど目新しい展開は見られず、大まかに言って想定の範囲内という印象。いや、杉田の詰め寄り方はすごく面白かったが、論点自体はそれほど深化・尖鋭化されなかったように思う。


市野川本に戻って「Aを超えるA」について少し。ルーマンはよく解らない。ただ、再帰性とは言うものの、議会制を超えた剰余としての民主主義が最終的に議会制に再帰する保証はどこにもない。だから、議会制を超えてしまった民主主義は結局「内在」しているのではなく外部から議会制を支えたり破壊したりするものでしかない(だからやっぱり二種類の暴力の区別は成功していない*1)。あるいは、民主主義ではなく議会制民主主義そのものが議会制を超えるのだろうか。でも、それ超えてないでしょ。稲葉さんの意図がどこにあるかは知らないが、そういう意味では確かに「不毛」なレトリックかもしれない。「いや、確かに超えてはいないかもしれないけど、内在しつつ揺るがしてはいる」と言えないことはないが、それこそ既存の法秩序に「飼い馴らされる」ことを意味してしまうのだろうな。


社会 (思考のフロンティア)

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共和主義の法理論―公私分離から審議的デモクラシーへ

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これが憲法だ! (朝日新書)

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