自由としての政治参加と公共性


2006/11/13(月) 15:15:03 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-291.html

大森秀臣『共和主義の法理論』(勁草書房、2006年)


「私的領域において誰にも干渉されない自由」と、「公共の場に出向いて、われわれの法的枠組みを自らの手で創りだす自由」との対立と融和をめぐる問題系は、近代以降の政治理論において常に活発な論争を生んできた。若手法哲学者の手になる本書もまた、この議論に生産的な寄与をなそうとする試みの一つである。


著者は前述の二つの自由の内、前者を「個人の自由」、後者を「自己統治としての自由」と呼ぶ。そして、従来のリベラリズムは個人の自由を保障するのに有効である一方、自己統治としての自由を損なわせるとする。槍玉に挙がるのはJ.ロールズの「政治的リベラリズム」である。ロールズは「重合的合意」に基づく政治的正義と特定の善を掲げる包括的教義とを区別し、公共的な審議における議題となりうるのは前者のみだとする。また、個人の政治参加を歓迎するものの、参加はあくまでも一つの善として個人の自由の範囲内に留まるものだと考える。著者によれば、これは審議の「非公共化」であり、政治参加の「私化」である。審議の議題や手続き、参加者の範囲などを政治的正義が決定してしまうとすれば、何が公共的であり何が公共的でないかについて一般市民が審議の場で争うことは不可能になってしまう。また、政治参加が私事とされてしまえば、社会構造の根幹を決定するための大規模な市民参加が認められなくなってしまう。結局、ロールズの正義構想では、一般市民から自己統治の自由が奪われてしまうのである。


しかしながら、著者によれば、問題は政治的/包括的のような公私分離そのものにあるのではない。公私の境界が所与のものとされ、再審されない点にあるのである。それゆえ、リベラリズムを批判して公私の結合を目指す共同体論も有効な解決策を提示することはできない。なぜなら、個人の内面における徳性の陶冶に焦点を合わせるばかりで、私的なものが公的なものに連結される政治的プロセスを示すことができない共同体論は、特定の小規模な共同体における連帯を養うことができたとしても、一般市民的レベルで共通のアイデンティティや徳性の陶冶を実現するのは困難であり、全体としては公私分離の構造を温存してしまうからである。


そこで著者が提示するのが、共和主義を審議的デモクラシー論にひきつけて理解した「審議‐参加型共和主義」である。この立場はリベラリズムや「徳性‐陶冶型共和主義」(共同体論)とは異なり、一般市民の参加に基づいて何が公共的であるかという点から問い直すことができるため、法的枠組みに公共的正統性を確保することが可能になる。また、政治的審議に法的枠組みと相互補完的な役割を与えることで、個人の自由と自己統治の自由との両立も実現されることになる。著者がF.マイケルマンとJ.ハーバーマスに依拠しながら、最終的に示す審議‐参加型共和主義の政治モデルは、公私分離の所与性を克服し、私的な要求を公的決定に反映していく回路についての有力な提案の一つとして、広く受け容れることが可能に思える。


私もまた、(共和主義という呼称はともかく)公私分離の境界線そのものを政治的審議に付していくという考え方には賛成である。ロールズへの批判も概ね妥当なものに思われる。ただ一点納得できないのは、参加の私化への批判である。本書で問題にされている公私分離の所与性に関わっているのは主に審議の非公共化であり、政治参加を個人の諸自由の一つとみなすことは直接には無関係である。一般市民の政治参加が活発に行われることや、審議の議題や手続き自体が審議の対象にされることと、参加の私化とは、完全に両立可能である。参加の私化は自己統治の自由の阻害ではない。そもそも審議の参加主体を個人に求める限り、参加の資格は個人の自由でしか有り得ない。もしも参加の根拠を公共的義務に求めたり、あるいは参加それ自体を「公共的」な「善いこと」であるかのように語ったりするならば、著者が退ける徳性‐陶冶型共和主義へと一気に接近してしまうことになるだろう。政治的審議をあくまで「私的な声や要求を公的決定に反映させる対話の営み」とみなす以上、参加を個人の自由として捉えることと公私分離の所与性を乗り越えることは矛盾しないし、それによって審議‐参加型共和主義の理論の一貫性が揺らぐこともないはずである。


さて、政治参加の私化を問題にする論者はしばしば政治的無関心を採り上げるが、著者も例外ではない。政治的無関心だけを以て自己統治の自由の理念が「根本から崩壊しかかっている」と述べる前に、無関心であってもさほど実害なく利益を享受できる/できた官僚制度や利益分配政治(利益集団自由主義)その他の政治システムの歴史的/今日的意義を十分に見極め、認識することが必要であると私は考えるが、自己統治の自由の危機論に類する言説はさほどの根拠を示さずとも受け容れられやすい傾向にある。そもそも、個人の自由≒消極的自由はその「保障」が問題になるのに対して、自己統治としての自由≒積極的自由はその「行使」が焦点化されることが多い。行使することもしないこともできるのが自由の本質であると考えるならば、これは逆説である。もちろん、この逆説に意味がないわけではなく、その自由を保障するためにこそ必要なのである、という理路によって自由の行使が要求される。論者によっては、政治参加の権利が行使されなければ全体主義が到来するかのように語る者もいる。二十世紀の全体主義はむしろ政治の過剰によって起こったと考える向きも多い点は措くとしても、こうした危機論が自由の保障という名目よりは、特定の政治的帰結や徳性の陶冶などへの期待といった別の目的に基づいて展開されていることが多いことを忘れるべきではない。


確かに私も、自由の行使の内実がある程度保たれなければ、自由を保障していくことや、非常時において自由を固守することが難しくなるであろうことは認める。だが、こういった危機を現実のものにしないための方策は、大上段に構えて漠然とした危機を叫んだり、公共心の希薄化を嘆いてみたりすることでは有り得ない。採るべき方策の第一は実質的参加可能性を確保するための制度設計(地方分権の推進、討議民主主義的諸制度の試行など)であり、第二は政治的自由および諸権利の歴史と意義についての教育の重点化(歴史教育における近現代史の重視、政治活動に関わる実践教育など)であろう。そして、これらは抽象的な危機論を振りかざしている時間があれば、十分に実現可能な方策なのである。


共和主義の法理論―公私分離から審議的デモクラシーへ

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