政治思想史を学ぶ意義とは何か(実践編)


2006/12/10(日) 17:44:54 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-305.html

普段あまり真面目には読んでいないEU労働法政策雑記帳を改めて見ていると、濱口さんが以前厳しくダメ出しした薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』とかなり共通する見方で政治的対立軸について語っていることが分かった*1。とりあえず目に付いたところでこのぐらいある。


ネオリベとリベサヨの神聖同盟(特にコメント欄)
ザ・ソーシャル
リベじゃないサヨクの戦後思想観
リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い
リベラルとソーシャル


薬師院についても述べたが、何に苛立っているのかは解る。解るし、実践的にはこうやって単純化した切り口を提示した方が良い結果をもたらすのかもしれないとも思う。でも、こういう単純化が、大げさではなく日本の戦後思想のかなりの部分をドブに捨てようとしているように見えてしまうのは私だけなんだろうか。戦後のリベラルおよび左翼知識人を批判するにしても、もう少し丁寧に切り分けた批判をするべきだろう。思想的な厳密さにこだわるのなんかは専門家の間だけでやっておけばいいんだよ、という意見なら私も賛成である。ただ、それにしてもあんまり単純化してドブに捨てる部分を多くしすぎると、無駄に敵を多くして政治的にもあまり良い結果を生まないんじゃなかろうか。


あと、アメリカではこう、ヨーロッパではこうなのに、何で日本はこうなのか、これはねじれている、だからおかしい、という言い方も私は気に食わない。日本の特殊性を欧米に照らして認識することは重要だし、こういう言い方が思想や制度の一貫性や整合性のレベルで言われるなら了解できる。でも、(濱口さんがそこまで言っているかどうかは別にして)もし欧米と違うことだけを理由に間違っているとか修正すべきだなどと主張するなら、あんまり有意義な主張じゃない。そんな主張にそのまま従えば、欧米由来の思想や制度はどの程度まで日本でも有効なのか、あるいはそれらを日本でも有効に用いるためにはどのような変更を加えればよいのか、といったことを日本の歴史や社会の特殊性と真剣に格闘しながら考えてきた人々の遺産を放り投げてしまう一方で、舶来品の思想や制度を日本でもそのまま用いることができるとか、ただヨコをタテに直したりすればいいだろうなどと考えてきたような人々の思想こそ受け継いでいくべきものだということになってしまう。


だから濱口さんが薬師院的二元論で単純化して人々に語りかけることは、それはそれでいいけれども、もう少し別のレベルでの語り方もあるということも同じ聴衆に同時に知っておいてもらわなければならない。(思想に詳しくない学者も含め)そういう人々に単純じゃない思想史を本格的に学んでもらう必要はないけれど(私も本格的にはやっていないんだし)、そんなに単純じゃないということは常に頭の隅に置いていてもらわなくてはいけない。じゃないと、語っている人は「あえて」単純化して語っているつもりがいつの間にか「あえて」を忘れてしまいかねないし、聞いている人々もそのまま真に受けてしまいかねないから。


前置きが長くなったが、中身については以前薬師院について書いたことで基本的に足りるように思う。つまり、日本の政治的対立軸の歪みを語る以前に政治思想史そのものへの理解が不十分なのだ。リンクの最初にあるホッブズとロックの例えが非常に象徴的で、民主主義の問題をスルーしてしまっている点で薬師院と共通している。左翼と右翼の問題は私もスルーしているから何も言えないけど、リベラルとソーシャルを語るなら、民主主義をスルーするべきじゃない。この対立は元々自由主義と民主主義の対立を受け継いでいる部分が大きいのだから。


一方にホッブズ(+α)=集権体制の民主的コントロール=ソーシャルという図式を、他方にロック=分権体制による下からの民主主義=リベラルという図式を描くのは非常にミスリーディングで、薬師院同様、市民参加はリベラル的で集権はソーシャル的という誤った考えを植えつけてしまう(言うまでもないと思うがホッブズはふつう自由主義者と考えられていることも念のため付け加えておく)。


以前書いたとおり、民主主義はもともと平等(ソーシャル)と同義に受け取られていた。これは、民主主義が政治的平等を求めるものであり、政治参加によって経済的・社会的平等を実現しようとする立場であることからすぐ理解できると思う。つまり、貧しくて政治参加も認められなかった人々が、権力に参加することによって平等を実現しようとした(さらに言えば古典的自由主義とは別の意味で「自由」になろうとした)のが民主主義=ソーシャルの側だった。最初から「自由」(「自律」と言い換えてもいい)を持っていた人達がいかに権力を制限するかを目的とした自由主義=リベラルとはそもそも出発点が違う。民主主義=ソーシャルの側はその目的上、確かに自由主義=リベラルの側より大きくて一体的な権力を想定していた面もあるけれど、そこでの主眼は権力の大きさよりもむしろ権力への参加だった。だからソーシャルの側が「下からの民主主義」であるとか、参加をより実現しやすい分権であるとかを求めたところで思想上特に不整合はないし、実際ソーシャルはそれを求めてきた。


そういう思想史的常識を省みるに、もし濱口さんの文脈で戦後(+現在)の左派を批判したいならば、「彼らはソーシャルであろうとしたけど、ソーシャルであるために反対すべき施策(市場の放任)を、ソーシャルであるために推し進めるべき施策(国家権力の制限とか分権の実現とか)であると誤って認識したために、保守派と呉越同舟するような歪んだ状況を時に生み出してしまったのだ」という言い方にするべきなんじゃないかな、たぶん。施策の中身がどう切り分けられるか、およびその批判が正当かどうかはひとまず措くとしてね。日本の左派はソーシャルであるよりもリベラルだったという言い方は、どうも不正確でかえって混乱を招くだけのような気がする。


中身についてはそんなところ。思うに、薬師院的見方が支持される原因は、戦後の福祉国家体制を所与のものとした上で政治思想を考えているところにあるのかもしれない。国家をより大きくして分配するか(ソーシャル)、より小さくして自由を拡大するか(リベラル)、という狭い範囲だけに政治的対立が切り縮められて、何でそういう対立が生まれてきたのかという歴史的文脈(思想史の「史」の部分)は忘れ去られてしまう。それゆえ、そもそも自由主義に対立する考えとみなされていた民主主義にリベラルとソーシャルが共有する前提としての地位を与えることについて、何のためらいも持たず、また留保も必要ではないと考えることになる。


薬師院=濱口的語り口にあまり違和感を感じていなかった人がもっと広い視野で政治的対立について考え直すためには、とりあえず福田歓一『近代民主主義とその展望』だけでも読むことをお勧めする。より重量級を読むなら、ハーバーマス『公共性の構造転換』なんか意外にいいかもしれない。あれもれっきとした左翼=ソーシャルの側からの福祉国家批判と読むことも可能だし。


と、ここまで書いて気付いた。これは「政治思想史を学ぶ意義とは何か」の実践編だな。


近代民主主義とその展望 (岩波新書 黄版1)

近代民主主義とその展望 (岩波新書 黄版1)

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

コメント

ここの文脈では「保守派と呉越同舟」よりも「ネオリベ呉越同舟」とでもした方が適切でしたので、訂正します。単純な間違いで他意はありません。


まぁ、「保守派」でもいいかなと思わないこともないのですが、ここでは混乱を招くでしょうから。
2006/12/11(月) 23:13:09 | URL | きはむ #- [ 編集]


申し訳ありません、きはむさんから頂いたコメントを、膨大なスパムコメントを消すのに紛れてうっかり消してしまいました。こういうお願いをするのは大変恥ずかしいのですが、もう一度わたくしのブログの方にコメントを付けていただけないでしょうか。お願いいたします。
2006/12/12(火) 09:00:02 | URL | hamachan #- [ 編集]


了解しました。
2006/12/12(火) 15:09:16 | URL | きはむ #- [ 編集]