正義の臨界を超えて(2)


この記事は「神と正義について・4」「神と正義について・5」「神と正義について・6」を素材として加筆・修正を施したものです。


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政治的なるものの消去不可能性

丸山は、一面では現行秩序の擁護者であった。それは、丸山が誰であれ秩序の破壊者に対しては政治的に振舞ったということでもある。ここで言う「政治的」とは、「友・敵関係」としての対立としての性格を帯びることを意味する*1。いかなる民主主義者も、リベラリストも、自らが支持するところの自由で開かれた社会を破壊する者に対しては、政治的に振舞わざるを得ない。


例えば、憲法学者の長谷部恭男は、価値多元主義に基づくリベラルな立憲民主制においては、公私の分離などを要求することで国家はそれぞれの価値に対して中立的に振舞うことが可能であり、比較不能な諸価値を共存させることができると主張する。しかし、同時に長谷部は、自身が支持するリベラリズムは、こうした多元的価値の共存が可能となるような社会の破壊者を断固として排除するものであるとの意思を明確にする。

 これに反して、さまざまな文化、さまざまな善の観念が共存し、競合する社会のあり方自体を否定しようとする思想に対してリベラリズムが中立的でありえないのは当然のことである。多様な善の観念の間になお社会的協働の余地を確保しようとする限り、ロールズのいう「政治的」領域を保障する必要性は、社会の中に生きるいかなる個別の思想に対しても優越する。リベラルな民主社会を破壊しようとする思想に対してリベラリズムが差別的な態度をとるのは、この政治的領域を確保する公共的必要に由来するのであって、何らかの特定の善の観念を執行するためではない。リベラリズムは、そのような思想の唱道に対しても、それが明白で差し迫った危険をもたらさない限りは寛容であろうとするであろうが、ある思想に対する寛容とその積極的是認との間には、明白な違いがある。*2


以上は、多様性を尊重する者は多様性を否定する者も尊重するか、という問いへの簡潔な回答となっている*3。長谷部が言う「政治的」とは「善」に対する「正」、すなわち「公共的」を意味する。だが、その価値を共有しない外部者が存在する限り、それは真の意味での「公共的」ではなく、「私的」あるいは「共同体的」にすぎない。すなわち、リベラルな民主社会を生きる「友」たちにとっては、そうした社会の破壊者たちは「敵」、徹底的に叩き潰すべき「敵」となる。諸価値に対して中立的に振舞おうとするリベラル・デモクラシーの擁護者もまた、一群の「敵」に対しては政治的に振舞わざるを得ない。その「敵」がしばしば指摘されるようにイスラームなのか、そうでないのかはここでは問題ではない。そうした「敵」はいつでも想定し得る。想定し得る限り、いかに自由で開かれた民主社会においても政治的なるものは消去できないのである。


政治的なるものは、メンバー選択においても現れる。既に見た論文で下地が述べるように、「メンバー選択の問題は究極的には恣意的でしかありえない」。国境から自宅の扉に至るまで、我々はそれを他者に対して無限に開いておくことはできない。そうである以上、われわれは共に「われわれ」たり得る共同体のメンバーを選ぶのである。それは潜在的に、あるいは直接的に、友と敵を分かつ政治的行為以外の何ものでもない。しかし、それは正義だろうか。友と敵を分かつことは正義だろうか。究極的に正当な根拠もなく、誰かをメンバーから排除することは正義だろうか。また、たとえ秩序の破壊者とはいえ、暴力を以て彼を鎮圧し断罪することは正義だろうか。もちろん、それは正義ではない。少なくとも否定神学的正義論が志向する彼岸的正義ではない。正義は暴力を拒む。政治とは暴力を以て敵から友の利益を守る営為にほかならない。政治は正義ではない。彼岸的正義は政治的なるものが消去された果てに現れる。それゆえ、永遠に現れない。


否定神学的正義論は、その構造上、政治的なるものの消去を究極目標に据えなければならないはずである。究極的な正義の名に値するのは、無際限かつ無血の正義のみであるから、正義は個別の共同体や暴力を決して伴わない。したがって、こうした正義に向かって漸進する否定神学的正義論は、メンバー選択の恣意性についての修正可能性に開かれていなくてはならない。しかし、振り返ってみると、先に検討した下地による批判的合理主義の正義論は、この要件を満たしていないようにも見える。下地は、メンバー選択についても異議申し立てによって無限の修正可能性を確保できるかのように述べているが、実はそこには修正不可能な枠が存在している。それは、まさにその合理主義、論理的反証の重視によって生み出される。


下地によれば、現行の正義への異議申し立ては無批判に受け入れられるべきものではなく、論理的な妥当性の争いを経て承認される。だが、そうした論理的整合性をめぐる争いそのものが、非政治的ではいられないであろう。たとえ論理的整合性自体は非政治的であり得る(客観的に判断可能である)と仮定するとしても、実際に整合性を判断し争いに決着をつけるのが、様々な政治的思惑を有するとともに必ずしも論理だけに動かされるわけではない現実の人間(メンバー)達である以上、異議申し立てが承認されるかどうかは政治的性格を帯びざるを得ない。専門家の判断においてはもちろん、民主的手続きにおいては尚更である。特にメンバー選択のような尖鋭な問題ならば、決して政治性は拭えない。新たなメンバーの異議申し立てに応えるかどうかを決めるのは、既存のメンバーの特権なのだ。こうした修正プロセス自体が持つ政治性を看過することはできまい。


また、以上の点は現実適用上の問題であって理論上の問題ではないと反論されるのであれば(私はそう思わないが)、もう一点付け加えておこう。批判的合理主義は論理的であることを重視するあまり、論理的反証をなし得ない者のメンバー参入を絶対的に拒んでいるのではないか?そもそも論理=言語を用いることができない者、あるいは言語は用いることができても論理的であり得ない者、そしてその上代弁をしてもらうことも不可能な者たちの異議申し立ての可能性を理論的に排除しているのではないか?これは無限の修正可能性を標榜する否定神学的正義論においては致命的な、修正不可能な枠の設置を意味しているように思える。もちろん、そもそも批判的合理主義の正義論は否定神学的正義論などではない、と言われればそれまでであるが。


やはり我々はデリダの議論を詳しく見る必要がある。そこではより洗練された否定神学的正義論が展開されており、批判的合理主義が押し流してしまっているように見える者たちのことも視野に入れられているからだ。デリダは徹底して政治的なるものが消去された地点を指し示す(もちろんそれは実現し得ないので指し示すだけであるが)。どうやら、そろそろ彼を訪れるべき段階までたどり着いたようである。

来たるべき民主主義


デリダは、主に講演やインタビューにおいて、自身の否定神学的正義論を丁寧に展開してくれている(デリダ自身が自らの主張は否定神学には還元されないと言っていることはこの際無視してよい)。まず、再三確認している否定神学的正義論の特徴の①現行秩序の暫定的・限定的承認について、デリダは以下のように明言している。

あの名指しようのない暴力の暴発のなかで、ふたつの陣営のどちらかに味方しなければならず、二元的な状況で選択をしなければならないのだとしたら、仕方ありません、そうしましょう。(中略)ですが、それにもかかわらず、改善可能性へ開かれたパースペクティヴを、「政治的」なもの、デモクラシー、国際法、国際機関、等々の名において、原理的に法の権限で残しておく陣営の側に私は立つでしょう。*4


ここで、デリダは丸山同様、一面では秩序の擁護者として振舞うことを宣言している。それは現実的には、ケルゼンや長谷部とともにリベラル・デモクラシーに対する攻撃者を粉砕する側に参与するという表明でもある。しかしその後に続く②と③、正義の不可能性の確認と不可能な正義への漸進についての議論こそ、デリダの本領である。丸山において永久革命の対象とされた民主主義は、デリダにおいては「来たるべき民主主義」と呼ばれる。それは、「いつの日か「現前的=現在的」となるような未来の」民主主義のことではなく、「現在〔現前的なもの〕のなかには絶対に現実存在しない」ような「不可能事」である*5。そして、「この不可能の可能性を信じる」ことこそデリダの主張の核心なのである*6


「来たるべき民主主義」が不可能であるのは、無条件の歓待や無限の責任、純粋な贈与が不可能であるのと同様である。歓待において、我々は条件付きの歓待しかなし得ない。予想もせず、招待もしていない、全き他者の無制限の訪問を我々は歓待することができない。我々は身の危険を覚え、恐怖を感じ、扉を閉ざさざるを得ない。「実際には、無条件な歓待を生きることは不可能」なのである*7。我々は歓待し得る者だけを歓待するのだ。これは責任や贈与においても同じである。我々は可能な範囲で責任を負うのであり、与え得るものを与えるのである。可能なことのみをなし得る我々の歓待は常に条件付きであり、責任は有限であり、贈与は交換の性格を帯びる。しかし、それにもかかわらず、無条件の歓待や無限の責任、純粋な贈与といった観念を捨てることはできないとデリダは言う。


なぜか。まず、無条件の、無限の、純粋なそれとしての観念なしには、条件付きの、有限の、純粋でないそれという観念は持ち得ないからである。これが一つの「パラドクス」、「アポリア」である。我々はこうした不可能事を不可能であるにもかかわらず捨て去ることができない。そして、デリダによれば、真の決定とはアポリアの経験なしではありえない。すなわち、正義とはアポリアの、「不可能なものの経験」なのである*8。換言すれば、なし得ないことをなすこと、それが正義である。


もう少し詳しく見よう。決定において、既に存在する「ある規則を適用すること」、それは単に「計算」にすぎず、そこでは決定は行われていない*9。合法的な決定とはすべからくこうした行為にほかならないが、既にある一般的規則をただ自動的に個別のケースへ適用するとき、「裁判官は計算する機械である」にすぎない*10。個別の事例が固有性を伴って扱われなければ、そこに正義は存在していないのだ。したがって、決定が決定であり、正義に適うためには、裁判官は一般的規則に従いつつ、個別事例に応じた再設定的な現実的解釈行為によって、規則を新たに発明するかのように決定しなければならない。固有のケースは固有のものとして扱われなければならない。それが正義である。


したがって、正義に適う決定は予測不可能かつ計算不可能なものである。もし予測可能であったり、計算可能であったりするとすれば、それは決定ではない。「私が行い決定していることがたんに私の決定できるものや私の可能性に属しているものだとすれば、これが私のなかにあるとすれば、それは決定ではない」*11。歓待し得る者を歓待することが歓待でないように、与え得るものを与えることが贈与でないように、決定し得ることを決定することは決定ではない。「来たるべきもの」は「予期されざる来客」なのであり、前もって知ること、見ること、予測すること、勘定に入れることはできないのである*12


ここまでで既にデリダの正義論の骨格は記述し得たと思う。確認しておけば、正義とは現在なし得ることの外にあるものであり、決定とは自らが決定し得ることの外にあるもの(他者の決定)である。同じことを、自己の可能態の外にある何か/何者か、すなわち他者(あるいは、「幽霊」)への応答こそが正義なのである、と言うこともできよう。冒頭で確認したように、デリダは現にある法や民主主義をひとまず肯定する。それは十分ではないが、「何もないよりはまし」である*13。その上で、「正しくありたいならば、法を改善しなければならない」*14。民主主義とは、「異議申し立てされる可能性、自分自身に異議を申し立てる可能性、自分自身を批判し無際限に改良する可能性を歓迎する唯一の概念」なのであり、その修正可能性こそが正義への道なき道を開く*15脱構築とは法の改良であり、「脱構築しえない」正義とは、その完成にほかならない*16。そして、我々は「この完成可能性への欲望」を持っているとされるのである*17


正義の完成とは、政治的なるものの消去を意味する。政治的なるものの消去に向けた現行秩序の修正可能性についてのパースペクティブにおいて、デリダは下地よりも徹底的である。少なくとも理論的レベルにおいては、彼は「非‐人間的な存在者」にも目配りを欠かしていないように見える*18。このように周到に展開されているデリダの正義論を前にして、われわれは大いに説得力を感じることを率直に認めざるを得ない。しかしながら、その主張を繰り返し吟味するならば、幾つかの疑問が抱かれてくる。そこで以下では、デリダの正義論に対する疑問点を挙げながら議論を進め、そこから否定神学的正義論そのものの妥当性を検討していくことにしよう。

正義=神=幽霊のとりつき


まずデリダが述べるアポリアの経験、すなわち無条件の歓待を想定することなしには条件付きの歓待を知ることはできない、という論理は詭弁にすぎないのではなかろうか。我々にとって歓待ははじめから条件付きであり、責任は有限であり、贈与は何らかの交換である。こうした可能なものがまずあったのであり、これらの「本来形」としての不可能なものは後から考えられた観念やイメージにすぎない。我々は完全なるものから不完全なるものを演繹したのではないから、完全なるものを想定することなしに不完全なるものを考えることは十分に可能である。そうであれば、全き正義の想定と現行の正義や秩序との結び付きは必然的ではないことになる。


このように、われわれにとっては可能なものが全てであると言ってよいのだが、デリダは自己の可能態=現実態の外にある何か(不可能なもの=他者)に近づき、ある意味で同化することが必要だとする。こうして自己の可能性を超える正体不明の他者に身を委ねる行いを、19世紀ドイツの哲学者マックス・シュティルナー流に言い換えれば、「精神」(Geist)にとりつかれることにほかならない。シュティルナーによれば「精神」とは神や人間や国家など、個体を超える普遍性を持つとされる観念たちである。シュティルナーは「精神」の神聖視を批判するが、それを非聖化して自己のために利用可能にすることを積極的に認めている。しかしながら、デリダ的な正義とは計算不可能=予測不可能=利用不可能なものであるから、それは利用することができない「聖なる精神」=幽霊であることになる。幽霊にとりつかれる時、シュティルナーの言う「自己性」(利己的目的意識)は失われ、決定は狂気に委ねられることになる。それゆえ、正義とは幽霊であると同時に、(「自己性」の維持を許さないという意味で)非エゴイスト的である。比喩的意味ではなく、ここにおいて明白に、正義は神の、唯一神の別の名である。


この帰結は否定神学があくまでも神学である限り当然と言えば当然だが、明確に神の「存在」を主張する一派を前にして我々はやはり問わねばならない。あなた達が信奉する神は普遍的なたった一人の本当の神などではなく、ローカルな神にすぎないのではないか、と。デリダの正義=神は無際限かつ無血においてのみ現れる普遍的正義であり、定義上そのような完全なものとしてしか想定してはならない。したがって、この正義は誰にとっても何者にとっても、いつどこでも、どんな場合でも妥当する正義であることになる。しかしながら、そのような正義を想定し得るだろうか。それは不可能ではないか。ここで不可能と言うのは、それが現実的に不可能であり現前不可能であるというだけでなく、原理的に、それを想定することも不可能な、いかなる意味でも「在り」得ない、という意味である。無際限であること自体を望まない者もいる。無血であること自体を望まない者もいる。誰にとっても、何者にとっても、いつどこでも、どんな場合でも妥当する正義とは一体如何なるものであるのか、私には全く分からないし、予想がつかない。


もちろん、このような予測不可能性こそ全き正義の特徴であった。だが、素朴に思う。想定し得ないものを想定しておくことに果たしてどれほどの積極的意味があるのだろう。むしろその隙間、想定不可能性という一種の隙間は、無用の神秘性やローカルかつ政治的なイデオロギーなどを呼び込んでしまう弊害を生むだけではないのか。この点について東浩紀は、デリダ派の理論と実践、いわば全き正義と現行の正義との間にある「理論的に支えられないその飛躍の「穴」を埋めるためにこそ、素朴なイデオロギー、主体や共同体の経験主義的な肯定が再来しうる」と述べる*19。こうした可能性は、正体不明であるがゆえに結局どのようにも解釈し得る全き正義の名の下に、ローカルな正義が正当化される事態の頻出を危惧させる。振り返ってみれば、下地による批判的合理主義の正義論では、全き正義へと向かう現行正義の修正可能性が何よりも重視されるが、その修正過程自体が極めて政治的であった。そうである以上、結果的には正義の政治性や相対性の問題は何ら解決を見ていないと言えよう。


結局のところ、否定神学的正義論は相対主義を乗り越えられていないようだ。それにもかかわらず全き正義なるものを想定すること自体が、新たな暴力、あるいはその隠蔽を生むかもしれない。全き正義は現前し得ないが、もしそれが現前するならば、それは「神的暴力」の姿をとる。デリダによって唯一「正義にかなう」暴力であるとされた神的暴力は、法を破壊し、罪を取り去りながら、血の匂いをさせない*20。神的暴力に血の匂いがないのは、血が「生命のシンボル」だからである*21。生命なき幽霊=正義=神には血はそぐわない。私は、全き正義の名の下にローカルな正義が正当化される事態において、こうした神的暴力(まがい)が横行することになるのではないかと恐れる。そもそも神的暴力が血の匂いをさせないのは、正義=神の下に人々がみな狂気と盲目に冒されているからではないのか?そして狂人ならざる者(エゴイスト)はみな隠蔽/処理されるからではないのか?


民主主義というイシューに即して考えてみよう。先に、相対的民主主義においては自己決定権ができるだけ多く実現されることが良いことだと述べた。否定神学的正義論が目指す民主主義は、こうした量的な基準を乗り越えようとする。究極的には、自己決定権は一挙に、全てそのまま実現されるべきであるとされるだろう。だが、自己決定権が一挙に実現される事態とは、全ての人の選好と意志が一致する事態であって、その時、一切の個別性や差異は姿を消す。その時、それが一種の全体主義ではないと言い切ることはできない(強制・抑圧・洗脳・隠蔽などが無かったと言い切ることはできない)。当然それが全体主義であると露見した時点で、それは「真の民主主義」ではなかったことになる、とは言い得る。しかし、完全な一致を意味する「真の民主主義」が常に全体主義紙一重であることは認めななければならない。それは全くもって不気味なもの、あまりに完全で、血の匂いもせず、汚れもないような存在であるがゆえに、とてつもなく不気味なものである。「真の民主主義」=来たるべき民主主義が実現する全き正義とは、こうした得体の知れない幽霊現象を意味している。


デリダ自身が述べているように、我々は「完成可能性への欲望」を持っている。全き正義なるものを想定しておくことによって、それがローカルな正義の隠れ蓑になり、「完成」を目指して醜悪な暴力が暴走することにはならないだろうか。私は幽霊を恐れる。より正確に言えば、得体の知れない幽霊の「存在」を強調することが生むかもしれない事態を恐れる。もちろん、否定神学的正義論が必然的に全体主義化を呼び込むかのような危惧はいささか過剰であるとしても、否定神学的正義論が結果的にローカルな正義による普遍性の僭称を許すことに少なからず寄与し得ることは確かである。そしてそれは、不完全な正義に対して全き正義を、神話的暴力に対して神的暴力を対置するような発想が必然的にはらむ危険なのである。正しい思想に従えば、正しい結果が得られる。そうしたイデオロギーへのナイーブな信頼が凶暴かつ醜悪な帰結を生んでしまう。我々は歴史にその実例を見ることができる。では、そうした帰結を避けるためには如何様な道が残されているのか。以降、われわれは否定神学的正義論と袂を分かち、別なる道を模索することにしよう。


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政治的なものの概念

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比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論

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テロルの時代と哲学の使命

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法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

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存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

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暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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*1:カール・シュミット[1970]『政治的なものの概念』未来社

*2:長谷部恭男[2000]『比較不能な価値の迷路』東京大学出版会、61‐62頁。

*3:同様の趣旨について、ハンス・ケルゼン[1975]46‐47頁を参照。

*4:ジョヴァンナ・ボッラドリ/ジャック・デリダ[2004]「自己免疫:現実的自殺と象徴的自殺」『テロルの時代と哲学の使命』岩波書店、174頁。

*5:同、184‐185頁。

*6:同、176頁。

*7:同、199頁。

*8:ジャック・デリダ[1999]『法の力』法政大学出版局、38頁。

*9:同、55頁。

*10:同、57頁。

*11:ジャック・デリダ[2005]『デリダ脱構築を語る』岩波書店、71頁。

*12:同、77頁。なお、これが「メシア的なもの」と「メシア二ズム」の分岐点でもある。

*13:同、104頁。

*14:同。

*15:ボッラドリ/デリダ[2004]186頁。

*16:デリダ[1999]34頁。

*17:デリダ[2005]123頁。

*18:同、137頁以下。

*19:東浩紀[1998]『存在論的、郵便的』新潮社、104頁。

*20:ヴァルター・ベンヤミン[1969]「暴力批判論」『暴力批判論』晶文社、32頁。

*21:同、33頁。