正義の臨界を超えて(3)


この記事は「神と正義について・7」「神と正義について・8」「神と正義について・9」を素材として加筆・修正を施したものです。


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みんなのほんとうのさいわいと察知の気体


われわれは相対主義についての検討を出発点としていた。その上で相対主義を乗り越え、普遍的正義の実現に近づくための有力なアプローチとして、下地や丸山、デリダ否定神学的正義論を取り扱ってきた。そして既に、否定神学的正義論は相対主義を乗り越えていないと結論付けるに至った。それでは別なる道があるのか。今やわれわれは、これまでとはやや異なった視角から切り込んでみる必要がある。われわれに新たな導きの糸を与えてくれるのは、戦後思想界の巨人、吉本隆明である。吉本は、その著述活動の初期から、「思想の相対性」について極めて尖鋭な考察を加えていた。われわれは彼の議論をやや詳しく検討することによって、否定神学的正義論とは別の道について有意義な模索をなすことができるであろう。そのためにはまず、吉本の思索について検討した大澤真幸による論考*1を手がかりに、吉本の可能性の中心に触れるための前提を押さえておかなくてはならない。


大澤は、いわゆる「ポストモダニズム」に特徴的とされる「普遍的な妥当性を要求する価値や規範の虚妄を暴きだし、理性の普遍性を懐疑する」ような態度は、モダニズムに由来するものであり、その変種にすぎないと述べる。モダニズムは、「伝統的な価値や規範が、それぞれのローカルな共同体に根ざす特殊性にほかならないことを認識し」、それらを相対化する。このような立場からは「実質的な規範を与えることを断念」せざるを得ないため(正義をポジティブに根拠付けることができないため)、「主として、普遍的に妥当する規範(正義)を構成するための形式的な手続きを定式化することに力を注ぐ」ことになる。大澤は、モダニズムのこうした形式的規範的態度を、吉本が言う「世界視線」、すなわち「内在的で経験的な世界の内のあらゆる局所に対して等しい距離をとり、それらを一挙に観望する」視線に仮託し、世界視線の帰属点が現前し得ないのと同様に、経験の超越的準拠点が現れ得ないことがモダンの特質だと結論付ける。大澤によれば、モダニズムポストモダニズムの差異とは、この前提の下に、超越的な準拠点が否定的にせよ「存在している」という面と、とにかく現前し得ないという面、いずれをより強調するかという違いにすぎない。


大澤の整理に従えば、正義の否定的「存在」を主張するデリダモダニストに分類されそうであるが、われわれがたどって来た文脈からすれば、そうした分類はミスリーディングである。デリダが主張する正義とは、いずれの立場からも等距離を取る形式的な「無立場」のことではなかった。そうした「無立場」はむしろケルゼン的相対主義に近い。むしろ形式性や一般性を超えて、個別のケースに対応してその度毎に法を創設するような正義こそがデリダ的正義である。したがって、われわれの文脈に合わせて大澤の整理をやや恣意的に修正して用いることにしよう。


すなわち、モダニストとは超越的な価値(神、正義)の実在を否定した上で、ローカル=相対的な諸価値・諸立場に対して等しく距離を取る中立的手続きの普遍的妥当性を主張する者たちであった。これに対して、モダニストが中立的かつ普遍的だと称する社会の枠組みや手続きそのものが、レイシズム、男性中心主義、西洋中心主義、人間中心主義など様々な面において極めて恣意的=政治的な性格を帯びていたことを暴露したのがポストモダニストたちである。ポストモダニズムによる一連の作業は、公には超越的な地位が空席であると述べ立てておきながら実際にはその席にローカルな価値を密かに座らせていたモダニズムダブルスタンダードを暴き、完全なる空席を求めるものだったと言える。こうした一般的ポストモダニズムの作業を踏まえて有力になってくるのがデリダに代表される否定神学的正義論である。否定神学的正義論は、超越的準拠=神=全き正義の完全なる空席、すなわち現前不可能性を強調しながらも、敢えてその「存在」を重視する点で、いわば再帰的なモダニズムの一種と捉えることができる。しかしながら、後述するように、大澤は否定神学的正義論に近しく見えるものを吉本の議論に見出し、それを「真の<ポストモダン>」なるものに対応させてしまう。この点においても、大澤の整理はミスリーディングと言わざるを得ない。


少し解りにくくなってきたかもしれない。ここで大澤が吉本に見出す可能性を見ていく必要がある。それは、端的に言えば、「不在において存在する」ような超越的他者ではなく、「具体的な生々しさにおいて現れる」他者への「感応」による普遍的妥当性への接続、という可能性である。吉本の議論にそのように読める部分があることは確かであり、その検討は後述することにするが、ここで大澤が吉本に見出す「真の<ポストモダン>」とはデリダの、あるいはエマニュエル・レヴィナスの正義論や責任論と基本的に同質のものである。一般的・形式的な手続きによって各個人を均質的に扱うのではなく、個別的・具体的な事情に合わせて応答(≒感応)していかなければならない、という立場こそデリダ(=レヴィナス)的正義であることをわれわれは既に見てきた。(ナイーブな)モダニズムにおける「不在において存在する」正義とは、普遍的であると僭称されたローカルな価値にすぎない。手続きは形式的であり空虚ではあるが、不在であるわけではない。デリダが言う「不在において存在する」正義とは、「不可能なもの」にほかならない。それは形式的であることを意味せず、むしろ具体的であることを要求する。したがって、多少ややこしいけれども、大澤が吉本に見出す可能性とはとどのつまり否定神学的正義論とほとんど一致すると見てよい。


さて、前振りが長びき過ぎた。ひとまず押さえておきたい点は、吉本の議論には確かに否定神学的正義論的に読める面があるということである。それは、大澤が繰り返し参照している吉本の宮沢賢治論からまずは明らかになる。自然、それは宮沢賢治のストーリーそのものに一定の否定神学性が認められるということでもある。「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニは、同乗者たちのローカルな「神さま」を否定し「たったひとりのほんとうのほんとうの神さま」の存在を信じて疑わないが、それはどんな神さまかと問われれば「ぼくほんとうはよく知りません」と答えざるを得ない。さらに、「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」「みんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」と普遍的絶対的正義への渇望がジョバンニによって繰り返し述べられるにもかかわらず、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いに対しては、やはり「僕わからない」との答えしか与えられない。そこでは、殉じられるべき絶対的正義の内容が知られていない(予測不可能である)わけだ。


同じ否定神学性は「グスコーブドリの伝記」にも見られる。主人公ブドリは、やはりみんなの幸せのために自らの命を犠牲にして自爆する道を選ぶ。そこでの幸せとは凶作の予防であるから決して予測不可能ではないが、自己犠牲によって共同体全体を救う行為は紛れもなく自らのなし得る以上のことであり、不可能なものの経験、決定不可能なことを決定する狂気=正義にほかならない。このブドリの最後について吉本が加えている考察こそ、大澤が注目した部分であり、われわれも無視することができない部分である。吉本は、物語の最後においてブドリの身体はイーハトーヴという人工都市と同化したと見做し、これを、「善い行いはその極限で、人間の身体を粉末にし、いわば<察知の気体>に化することができ、この気体は瞬時に時間や空間の制約を超えて他者の<察知>に感応できる」という宮沢のユートピア理念の表れと解する*2。それ自体では難解なこの箇所を、デリダの議論を経てきたわれわれは比較的容易に理解することができるはずである。極限的善とは正義であり、「察知」とは言わば他者への「応答」である。身体が気化するという表現は、なし得ないことをなす、正義の性質を伝えるための隠喩にほかならない。


吉本はここで宮沢の理念について述べているにすぎない。それにもかかわらず、大澤が吉本に否定神学的正義論に近しい理論的可能性を見出そうとする作業に説得力があるのは、吉本がその最初期の「マチウ書試論」において「思想の相対性」に「関係の絶対性」を対置したことが前提にあるからである。大澤は、「関係」を「現前する他者との関係」(「対幻想」)と解することによって、吉本をいわば(結果的に)デリダレヴィナス的に解釈したのである。それは一つの、有力な解釈ではある。しかし、吉本の真価は否定神学的正義論に還元可能な部分にあるのではない。確かにそのようにも読めるが、そのように読んでしまっては、ある意味で吉本の仕事は台無しになってしまうのである。私は、大澤とは別様に吉本を読んでみたい。その場合のポイントもまた、「関係の絶対性」である。

思想の相対性と関係の絶対性


「マチウ書試論」を読もう。一般的には、この作品は「思想の相対性」を超える普遍的妥当性を「関係の絶対性」に求めたものとされる。その論理の核心は以下に集約される。

 だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、「それなのに諸君は予言者である私を迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な撰択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ。」とこたえればこたえられたのであり、この答えは、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まないいかなる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。*3


吉本によれば、秩序に加担する思想はその内容に関わらず、関係性によって常に秩序からの疎外者への迫害に加担することになる。それは人間の自由意志によらず、関係の絶対性によって決まってしまうものである。これに対して、秩序への反逆は、現に秩序から疎外され、秩序に加担していないという関係の絶対性によって「倫理」に結び付くのである。ここでの「倫理」とは、思想の相対性を超える普遍的妥当性と考えられるのが一般的であろう。大澤もそのように読む。


しかしながら、吉本の主張をそのように読むとすれば、当然にこのような疑問が抱かれはしないだろうか。秩序からの疎外者による秩序への反逆が「倫理」に結び付くというのは、それ自体既に何らかの(相対的な)思想に基づいた考えではないのか、と。秩序の外部に追いやられた「他者」に対して何らかの応答をなさねばならない、彼らの反逆は絶対的に倫理に結び付く、といった主張はデリダ(=レヴィナス)的に読むことが可能だが、ここで秩序から迫害を受けていることを問題視する視点自体が既に相対的でしかない。吉本は相対性に相対性を対置するようなトートロジーを犯したのだろうか。もしそうであるならば、「マチウ書試論」を読む価値など無に等しい。われわれはここで「マチウ書試論」の別の読み方に気付くべきである。そもそもこの作品で言われる「思想の相対性」とは一般的な意味でのそれに還元しきれるものではないのだ。


マチウ書において、律法学者とパリサイ派は「大きな護符をみにつけ、衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座を愛する」として攻撃される。これに対して吉本は「抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が受感される」と述べ、「構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない」とする。「キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいした」のである。われわれは、それ程注意せずとも、ここで問題にされている「相対性」が、一般的に言われるような、究極的な正当化根拠を持たないという意味ではないことを理解する。吉本が「ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある」。吉本が抉り出そうとしている「思想の相対性」とは、思想の思想に対する相対性や思想それ自体としての相対性(だけ)ではなく、思想の現実に対する相対性なのである。この点を掘り下げるべく、次にわれわれは「丸山真男論」に取り組もう。


丸山真男論」の中で吉本は、「思想によって知識人であった」丸山を「生活によって大衆であったもの」に対置することで批判している。結論を先取りして言えば、この「生活」こそ「関係」と同義に読まれなければならないのである。吉本は終戦時、「怒るかわりに、すべてはおためごかしではないか、という皮肉と支配者拒否の様式をかいまみせた」大衆に「絶望的なイメージ」を見た。だが、丸山のような「進歩派」や「コミュニスト」たちはそれを見たはずであるのに、それについて述べることはない。丸山たちが理解しなかったのは、「大衆はそれ自体として生きている」ということである。「天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている」大衆のイメージを理解せず、「虚構の極限」からしか大衆を捉え得ない丸山は、「支配ヒエラルキーが思想的に天皇制から、ブルジョワ民主主義に変った(あるいは変りつつある)から、大衆的な課題は、民主主義の擁護または確立にあるといった仮構のイメージで捉えることになる」。思想が右から左へ動けば、大衆も右から左へ(あるいは左から右へ)動くものだ/べきだという態度を採ること。それは、思想や理念以前にそれ自体として生きている、生活を営んでいる大衆の原像を見失うことを意味している。


「中和的なもの、あいまいなもの、論理により整序できないもの、感覚的なもの、本能的なもの」への「丸山の嫌悪」を遡ると「それ自体の生活者である大衆にたいする嫌悪」へと行き着く。それは虚構の極限からのみ現実を照射する丸山にとって必然に思える。丸山や、丸山と否定神学性を共有する左翼・進歩派にとっては、常に思想や正義がまず先にある。だが、その思想=正義は現実=生活に臨んで相対的でしかない、そう吉本は言っているのだ。


再び「マチウ書試論」の言葉を借りれば、「現実の秩序のなかで生きねばならない人間」にとって、「思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしない」のである。われわれは思想に生きる前にまず生活に生きる。思想を必要としない者はいくらでも居るが、生活を必要としない者は居ない。それゆえ思想は相対的なのであり、生活=関係は絶対的なのである。吉本の「大衆の原像」論は、一般的に受容されているように、エリートや知識人に大衆を対置するものとして読まれるべきではない。それは思想によって生きると錯覚する者に対して、生活によって生きざるを得ない人間の原像を突きつけるものである。知識人もまた生活を避け得ないのであるから、「原像」を否定することは自らの足場を切り崩すことにほかならない。また、エリートや知識人に属さないような者であっても思想に殉ずることは可能であるから、思想に生活を対置することとエリート・知識人に大衆を対置することは同じではない(さらに言えば、「生活」に密着することを旨とする「思想」もある)。


ここで「関係の絶対性」の意味を捉え直そう。「構成された秩序を支点」とする秩序の加担者と疎外者との対立は、現実的=生活的な関係にほかならない。そこでは思想の内容は問題ではなく、ただ「衣服に長いふさをつけ」られるか否かだけが全てであるような関係がある。思想の対立がそのような卑俗な対立に「堕する」のは、人が思想の前に生活=関係を生きるからである。とすれば、ここで秩序に対する反逆が結び付き得る「倫理」とは何であるのか。論理構成上、それは思想ではありえない。それは思想に裏付けされた規範や正義という意味での「倫理」とは別種の、もっと他の何か、より生の、要求を根拠付ける、あるいはおそらくより正確に言えば、要求を「理由付ける」何かである。それは、自らがこれこれの関係=生活にあるという事実それ自体を根拠/理由として何らかの要求を実現すべきであるとするような何か、言わば規範と事実のあいだの隙間にあって自らを主張するものである。それを具体的にどう構成するかは大きな課題として残されているが、この論考はそろそろまとめに入らなければならない。

エゴイズムの正義論


生活は思想に先立つ。この点を既に確認した。それは、計算可能なもの、利用可能なものこそがまずあるということである。このことは生活が出発点であることを意味するだけではなく、同時に終着点であり、目的でもあることを意味する。


一般に、人は思想を目的として生きるのではない。人が何らかの思想、あるいは正義を要求するのは、それによって自らの生や生活をより良くするため、保障するためである。正義それ自体から主観的利益を得る人がいないとは言わないが、そうした効用は一般化できるものではない。人は自らの「力」とするべく正義を要求する。人は正義それ自体を目的とはしない。すなわち、正義は手段である。したがって、思想ではなく生活によって生きる者にとって、全き正義などといった計算/予測/想定不可能なものははじめから視野には入らない。ここにおいて、言わば「正義主義者」の主張と現実とのズレが生じてくるのである。例えば、下地は以下のように述べていた。

 先に述べたように、人の生を無前提に肯定するという公理を拒否する人もいるだろう。しかし、この公理を拒否することは、その人自身の生きる条件を支える論理的根拠も同時に拒否することになるだろう。その人が生きられる条件が確保されるのは、社会がそのようにすべきだからではなく、単なる偶然であると位置づけなければならない。だから、それを奪われたとしても、それを残念だとか悲しいとかは言えるとしても、それを不正だと言う根拠は存在しない。それを甘受するならば、公理を承認するかどうかはその人の選択である。その意味で、この公理を受け入れるか否かは、正義と呼びうるものが存在するかどうかの臨界点である。*4


われわれは論理によって生きているわけではない。われわれは「不正だ」と言いたいがために正義を要求するのではない。建前はともかく、力を得るために正義を要求し利用するのだから、自らに都合のいい不正には目をつむることもあるし、「不正だ」と言うことに現実的な意味がなければ別の手段を考える。われわれの生が奪われようとするその瞬間に、正義は役に立ってはくれない。その意味で正義は相対的であり、力は絶対的である。それは望ましいかどうかとは別のことであり、現実に生きるわれわれにとって避け得ないことだ。


正義は手段として、生のままの力を補うことで初めて意義を持つ。正義=規範をただそれだけで振りかざしていても、力=事実による裏付けがなければ、宙に浮いているだけで意味をなさない。したがって、われわれは規範を裏付けている事実の配置と推移に敏感でいなくてはならない。他方、事実を生のままで受け入れてしまっては、所与の力関係を動かすことができず、自らの力を増して生活をより良くすることはできない。ゆえにわれわれは規範を手段として必要とする。必要な規範を事実に基づき成立させ、事実=力によって支えるのである。そしてこうした規範によっては十分ではない地平において、われわれは新たな「倫理」を必要とするだろう。「関係の絶対性」に基づいた「倫理」を。


かつて私は正義を必要としないことで「降りている」(つまり上記の公理を拒否している)と見做されたことがあるが、今や抵抗すべきであるのはこの二元論である。すなわち、正義に臨んで、人はそれを要求する=引き受けるか、放棄する=降りるか、いずれかであるという一見尖鋭な二者択一には問題の核心は無いのだ。相対主義を否定することは不可能であると私は考える。それゆえ規範は常に不安定である。究極的に正当な根拠を持たないという意味と、あくまで手段的であるという意味の二重において。いかなる時も、われわれはこの前提の上で規範を利用しなければならない。この目的‐手段関係を手放せば、我々はすぐさま狂気や幽霊にとりつかれて得体の知れない何者かに自己を譲り渡すことになってしまうだろう。そして、従来の規範を超えて、更なる力を手にするためには、規範と事実のあいだ、その隙間に潜む可能性を追求する必要がある。


(完)


思想のケミストリー

思想のケミストリー


ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

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マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)


柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

*1:大澤真幸[2005]「<ポストモダニスト吉本隆明」『思想のケミストリー』紀伊国屋書店

*2:吉本隆明[2003]「人工都市論」『ハイ・イメージ論Ⅰ』ちくま学芸文庫、195頁。強調は原文。

*3:吉本隆明[1972]「マチウ書試論」『現代の文学25 吉本隆明講談社、336頁。傍点強調を太字に改変。

*4:下地[2006]221頁。