正義の臨界を超えて(1)


この記事は「神と正義について・1」「神と正義について・2」「神と正義について・3」を素材として加筆・修正を施したものです。

相対主義的民主主義


思想はすべからく相対的であるゆえに、「神々の争い」は延々と続いて止む気配がない。しかしながら、このような世界でも神や正義について未だに真剣に考えている人々がいる。果たして思想の相対性を超える可能性は存在するのだろうか。ここでは、少し彼らの背中を追ってみたいと思う。


さしあたり、われわれが今立っている場所である相対主義を出発点としよう。例えば、代表的な価値相対主義者であるハンス・ケルゼンは、次のように述べている。

人知の歴史が、われわれに、何物かを教えることができるとすれば、それは、合理的な方法で、絶対的に有効な、正しい行動の規範、つまり、反対の行動も正しいものとする可能性をなくしてしまうような規範を発見しようという努力が空しいものである、ということである。もし、われわれが、過去の知的経験から、何物かを学ぶことができるとすれば、それは、人間の理性が、相対的な価値しかとらえることができないということ、つまり、何物かを正しいとする判断は、決して、それと反対の価値判断の可能性を排除する資格がない、ということである。*1


絶対的真理、絶対的価値の認識可能性を否定するケルゼンは、相対主義の立場から民主主義を帰結し、それを自らが支持する価値理念として選び採る。

 絶対的真理と絶対的価値とが、人間の認識にとって閉されているとみなす者は、自己の意見だけでなく、他人の反対の意見をも少なくとも可能であるとみなさければならない。この故に相対主義は民主主義思想が前提とする世界観である。デモクラシーは、あらゆる人の政治的意思を平等に尊重する。どんな政治的信念でも、どんな政治的意見でも、その表現が政治的意思でありさえすれば、同じように尊敬する。*2


あらゆる政治的意思を平等に尊重すると称する民主主義そのものが有する政治性(それはケルゼンが明確に認識し示唆しているところでもある)については後に検討するとして、ここで確認しておきたいことは次の点である。すなわち、以上のように相対主義から帰結され選び採られた民主主義は、必然的に多数決原理を良い=正しいと考える価値理念としての性格を帯びる。民主主義者は人々が自己決定によって自由を実現することを願う。だが、政治的共同体のメンバー全ての意見が平等に扱われねばならず、かつ全ての意見が一致することはおよそ想定し難い以上、民主主義者は「できるだけ多数の人間が自由である」ような仕方で満足しなければならない*3


ケルゼン的民主主義の立場―そしてそれは私も含めて現在多くの人々が共有する支配的な民主主義観でもある―を敷衍しよう。対等なメンバー間による討論と投票によって「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」政治体制が民主政であり、そこでの決定方式としては平等な個人の自己決定権をできるだけ多く実現する多数決方式がしばしば用いられる*4。両者は形式上相互に独立のものだが、民主政が政治的権利の平等を基礎にしている以上、多数決原理との結びつきは必然的と言える。そして、全てのメンバーの参加可能性を確保した上で多様な政治的意見を平等に扱うために民主政を良いと考え、各個人の自己決定権をできるだけ多く実現するために多数決原理を良いと考える価値理念こそが民主主義にほかならない。したがって、民主主義にとっての正しさは主に、質的ではなく量的な基準(「できるだけ多く」)によって測られる。


ここまで明確に意識するかどうかは別にして、読者の多くも民主主義を概ねこのように捉え、これを支持するだろう*5。だが、同じように民主主義者を名乗りながらも、このような相対主義的民主主義観を共有しない人々が少なからず存在する。そのような人々にとっての民主主義は、相対主義的民主主義以上の何かであり、民主主義の正しさは量的ではなく質的なものに求められるだろう。おそらく彼らの民主主義観は、ケルゼン的な価値相対主義を拒むところから発している。それは、われわれにとって避けがたいものに思える相対主義を乗り越えて、何らかの正義の可能性を切り開こうとする立場である。

批判的合理主義の正義論


そうした試みの一例として、ここでは、下地真樹が提示している「批判的合理主義の正義論」を取り上げよう*6。下地は、世界にケルゼン的相対主義が蔓延していることをまずは認める。この世界においては、「私たちの主張はどこかで、究極的には正当化されえないドグマティックな主張に行き当たらざるをえない」ために、「論争は神々の争い」なのである。ケルゼン的相対主義において唯一成り立つ正義は、手続的正義と呼ばれるものであるが、この正義の下では「多くの人々が生命を奪われるようなどんな社会的決定も、それが適正な手続きにのっとって行われている限り、それを不正義という根拠はない」ことになる。下地はこうした手続的正義を「社会を批判する足場そのものを失」わせるものだとして退け、何らかの帰結主義的正義を欠くべからざることを主張する。


下地が提示する正義は、「社会のメンバー全員に対して、十全に生きられる状況を実現」することである。だが、下地によれば、これは正当化される必要がないものだという。この正義の正しさも、この正義が実現しているかどうかも、確証することはできない。我々には正しさを基礎づける究極の根拠は持ち得ないからである。それゆえ下地は、可謬主義に基づき、この正義を誤り得る仮説的なものとして捉える。それは誤りであるかもしれない、けれども、現に反証されるまでは暫定的に受け入れることができるものである。現行の正義の対象と内容、すなわち社会のメンバーリストと基底的潜在能力のリストに対して異議申し立てがなされ、その異議が合理的で妥当であるならば、従来の正義は修正される。現存する正義は誤り得るが、それが無限の修正可能性に開かれているゆえに、暫定的な正しさとして受け入れることができる。「社会は正しくあることはできないが、正しくあろうとすることはできる」。これが下地の主張する批判的合理主義からの正義論である。


以上の議論の構造を確認しよう。現行社会はひとまず受け入れられる、いや、引き受けられる。今ある法や制度は投げ出されることなく、だがあくまで暫定的なものとして承認される。ここにひとまず「正義」が成立する。不完全で、妥協的で、現実的かつ世俗的な「正義」が。しかしここから同時に、完全かつ無際限、理想的かつ彼岸的な正義への歩みが始まることとなる。「社会は正しくあることはできない」という言明に明確な通り、究極的な正義の実現は既に断念されている。だが、その究極的な正義、決して現前し得ない正義は、決して放棄されない。そうした彼岸的正義は、現行社会の絶えざる修正と改善によって近づいていくところの準拠点にあって永遠に光を放ち続けるのである。それこそ、究極的な意味での「社会を批判する足場」でもある。


このような構造を持つ正義論を、私は以後「否定神学的正義論」と呼びたい。否定神学とは、現前しない(不在の)神の存在を否定的言明(「神は〜でない」)によって浮かび上がらせ、指し示す営為を意味する。批判的合理主義の正義論もまた、同様の構造を持つと言える。正義=神の現前可能性は否定されるが、それが「ある」ことは放棄されず、絶えざる反証=否定(「正義は〜でない」「これは正義でない」)によって正義=神への近づきを得ようとする。もう一度確認しておけば、現行社会の暫定的承認と、無限の修正および改善可能性による彼岸的正義への漸進こそが、否定神学的正義論の特徴である。


私が、あるいはあまり厳密ではないかもしれないやり方で否定神学と非相対主義的な正義論とを結び付けるのは、これを拙速に批判するためではない。かといって、これを支持するためでもない。むしろこの立場に対してどのような態度を採るべきか、その吟味を行うことが第一の目的である。実際、この立場を安易に批判することはできない。実現が難しい理想を捨てることはせずに、現在地から少しずつそれに向かって歩んでいく、という姿勢は日常的に広く共有されているところであるからだ。後に述べるように、フランスの哲学者ジャック・デリダがこの立場を思想的に洗練化しているために、ますます反駁は難しくなっている。


さて、下地の議論についての違和感などは後に改めて述べることにして、ここでは、ひとまず否定神学的正義論の構造を押さえることで満足しておこう。否定神学的正義についてより深く知るためにはデリダの議論を参照する必要があるが、その前にやや寄り道をしておく。

民主主義の永久革命


まず立ち寄っておきたいのは、日本政治思想史家の丸山眞男の議論である。ここで丸山眞男の、それ自体としては正義論とは言い難い議論を取り扱うのは、下地の議論を通して見たような否定神学的正義論の構造が広い範囲で共有されていることを確認するためである。我々は、ただその構造を発見するだけのために西洋の難解な哲学者の書を紐解く必要はない。それは、日本の戦後政治学の中心において一貫して唱えられていたからだ。


いくつかの引用によって証明しよう。まず、1958年の講演をもとにした小論において、丸山はこう述べる*7

 民主主義というものは、人民が本来、制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。


これは丸山の一貫した主張であり、その後も繰り返し表明される。曰く、「民主主義の理念は、本来、政治の現実と反するパラドックスを含んでいるのであり」、「未来に向って不断に民主化への努力をつづけてゆくことにおいてのみ、辛うじて民主主義は新鮮な生命を保ってゆける」のである*8。そして、こうした認識を象徴的に表現するのが、有名な「永久革命」論である。

 もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても「支配」は少数の多数にたいする関係であって、「人民の支配」ということは、それ自体が逆説的なものだ。だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する。*9

 さきほどもいいましたように、民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、(中略)「永久革命」なんですね。*10


不断の民主化永久革命としての民主主義、それは不可能な理想への漸進にほかならない。丸山は完全なものとしての民主主義は制度化されない、と言っているのだ。丸山にとって、制度化された民主主義――それはケルゼン的な相対主義的民主主義に基本的に等しい――は常に不完全であり、批判されるべきものである。しかし、周知のことながら丸山は秩序のやみくもな破壊を喜ばない。彼は「政治的プラグマティスト」として、秩序の破壊者に臨んでは常に既定の秩序や制度を擁護する側に回る。現行秩序をひとまず承認しながらも、その固定化を警戒し、不断の修正可能性に賭ける丸山は、紛れもなく否定神学的正義論の立場に姿を重ねる。丸山において、パラドックスとしての民主主義が完全に実現されるユートピアは否定されている、が、目指されている。そして、丸山は現前し得ないそうしたユートピアから逆に現実を捉え返し、批判的言論の根拠とするのである。


丸山のそうした方法的な面での否定神学性を早くから鋭く見抜いていたのは、丸山を誰よりも激烈に批判した吉本隆明であった。丸山はしばしば、近代西欧を理想化した上でそこから日本の未成熟性を批判する「欠如論」者であるとして批判を受けた。これに対して近年の丸山研究においては、丸山は現実の近代西欧を理想としたのではなく、その理念型やエートスとしての、しばしば現実の西欧諸国においても達成されていないような「近代」を批判の準拠点としたのだという指摘がなされることがある。そして、そのような丸山的「近代」の虚構性を吉本は1963年の「丸山真男論」において既に指摘していた。

 丸山「政治学」において重要なのは、対象の頂点に、虚構の極限(おそらくヘーゲル以後のドイツ観念論の方法でみられた幻想の「西欧」である)を設定し、その虚構の極限からくり出される規定によって、対象の構造を分析するという「方法」それ自体である。丸山のこの方法は、もしすべての「立場」というものを、対象と主体との現実的な交叉点にもとめるならば無「立場」とみえざるをえない。が、本質的には、虚構の極限に「立場」があるために、「方法」それ自体が「立場」と化しているものとかんがえることができる。丸山のある極限のイメージに、丸山の主体が交叉し、その虚構の地点に「立場」が描かれている。*11


「丸山が描いているようなイメージとしての「西欧」近代の文物などは、どこにも「実在」していない」*12。吉本のこの分析はおそらく当たっているだろう。丸山のこうした方法について、吉本は両義的である。「丸山真男論」においては、その方法としての鋭さが高く評価されつつ、それが不可避的に現実から遠ざかっていく点が問題にされていく。そこでの吉本の態度は、我々の正義についての探究に対して、後に大きな示唆を与えてくれるだろう。しかしながら、今は丸山眞男における否定神学性を確認しておくだけで次へ進むことにしよう。丸山を通して再度確認された否定神学的正義論の特徴は、①現行秩序の暫定的・限定的肯定、②全き正義実現の不可能性の確認、③現行秩序の恒久的是正義務の主張(全き正義の否定的保持)、として整理し得る。繰り返すように、このような構造を持つ議論の最も洗練された唱道者はデリダであるが、彼を訪れる前にもう一箇所だけ寄り道をすることを許して欲しい。


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正義とは何か (1975年) (ケルゼン選集〈3〉)

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デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)

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憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

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日本の思想 (岩波新書)

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丸山眞男集〈第8巻〉一九五九−一九六〇

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丸山眞男集〈第16巻〉雑纂

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柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

*1:ハンス・ケルゼン[1975]「正義とは何か」『ケルゼン選集 第3巻』木鐸社、45頁。

*2:ケルゼン[1966]『デモクラシーの本質と価値』岩波文庫、131頁。傍点を省略。

*3:同、39頁。

*4:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、39頁。

*5:私自身の立場については、「利害関係者による討議と決定」第3章第2節を参照。

*6:下地真樹「批判的合理主義の正義論」『情況』2006年5・6月号。

*7:丸山眞男[1961]「「である」ことと「する」こと」『日本の思想』岩波新書、156‐157頁。傍点を省略。

*8:丸山眞男[1996]「民主主義の歴史的背景」『丸山眞男集 第8巻』岩波書店、89頁、95頁。

*9:丸山眞男[1996]「五・一九と知識人の「軌跡」」『丸山眞男集 第16巻』岩波書店、34頁。

*10:丸山眞男[1996]「戦後民主主義の原点」『丸山眞男集 第15巻』岩波書店、69頁。

*11:吉本隆明[1972]「丸山真男論」『現代の文学25 吉本隆明講談社、375‐376頁。

*12:同、370頁。