ある無限速度機械について


2007/03/25(日) 18:16:32 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-328.html

以前、「神と正義について・7」で吉本の宮沢賢治論に触れた*1。そこで扱っている部分とは別に、同じ吉本の「人工都市論」を読んだとき、非常に心に引っかかったところがもう一箇所あった。それは以下の部分である。


ただ根本的にかれがこの人工都市に願望したのはただ一つの特性である。それは<交通>の超時空性ということ、もっとはっきりいえば、願望が切実で真であれば、瞬間の内にある場所に到達できるし、また思いをそっくりそのままある他者の心に伝達することができるということだ。このすばらしい<交通>の動力機関にあたるのは「察知」と「願望」の無限速度機械だといえる。たとえば「銀河鉄道の夜」のなかで鳥を捕る人が銀河の河原で鳥をつかまえて瞬時に列車に戻ってきたのをみて、ジョバンニが、どうしてあそこからいっぺんにここへ来られたのかとたずねる。すると鳥を捕る人は「どうしてつて、来ようとしたから来たんです」と答えるところがある。来ようとする願望が心にきざしたとき、瞬時に来るということは実現される。それが宮沢賢治の人工都市のドリームランドとしての根本特性だった。


吉本隆明「人工都市論」『ハイ・イメージ論Ⅰ』筑摩書房:ちくま学芸文庫、2003年


ここで吉本が触れている部分が、以下である。


 鳥捕(とりと)りは、二十疋(ぴき)ばかり、袋(ふくろ)に入れてしまうと、急(きゅう)に両手(りょうて)をあげて、兵隊(へいたい)が鉄砲弾(てっぽうだま)にあたって、死(し)ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕(とりと)りの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣(とな)りにしました。見ると鳥捕(とりと)りは、もうそこでとって来た鷺(さぎ)を、きちんとそろえて、一つずつ重(かさ)ね直(なお)しているのでした。
「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問(と)いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」


宮沢賢治「銀河鉄道の夜」角川文庫版


銀河鉄道の夜」には同じような箇所、つまり吉本の言葉を借りるなら「「察知」と「願望」の無限速度機械」が駆動しているように読める部分は他にもいくつかある。例えば、ジョバンニたちが乗る汽車は石炭を焚いていないが、その動力についてカムパネルラは「アルコールか電気だろう」と推測する。それに対して「どこか遠くの遠くのもやのもやの中から」聞こえてくる不思議な声が、「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ」と答える場面がある。


また、ジョバンニたちが汽車に乗り合わせた青年からリンゴをもらう場面では、「どこでできるのですか。こんな立派(りっぱ)な苹果(りんご)は」との問いかけに対して青年が次のように答える。「「この辺(あたり)ではもちろん農業(のうぎょう)はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約束(やくそく)になっております。農業(のうぎょう)だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の望(のぞ)む種子(たね)さえ播(ま)けばひとりでにどんどんできます」。さらに、同じく乗り合わせた少年がリンゴを食べるとき、剥かれたリンゴの皮は「床(ゆか)へ落(お)ちるまでの間にはすうっと、灰(はい)いろに光って蒸発(じょうはつ)してしまう」。


吉本の「人工都市論」はユートピア論であり、最初に引いた文章も、宮沢の物語の舞台である「イーハトヴ」では「あらゆる事が可能である」という宮沢自身の言葉を受けてのものである(宮沢賢治「『注文の多い料理店』広告文」)。「銀河鉄道の夜」に現れるような「<交通>の超時空性」は、ユートピア物語ゆえの非現実性であり、物語として読む限り、私たちはその「設定」を特段摩擦もなく受け入れることができるだろう。それは、望めば瞬時に移動できる、望めば望むだけ食べ物が手に入る、不要な物はひとりでに消え去ってくれる、という「設定」が、現在の私たちにとっても、ユートピアへの想像力として極めて一般的な水準であるように思えるからである。それはいかにも子どもが考えそうなことである


こうした形態のユートピアを描くことが割合陳腐と言えば陳腐な想像力であるとしても、それが一つの理想郷であることには間違いない。「戦争の無い世界」などのマクロな環境についてはともかく、ミクロ的環境においては、いかにも子どもが考えそうなことが、人間一般についても極めて理想的であることは明らかである。望めば望むものが手に入る世界、あるいは望むまでもなく望むものが手に入る世界をユートピアと言わずして何と言うのだろうか。そこでは、自由が完成されている。「〜からの自由」ではなく「〜への自由」が、ほぼ完璧に近い形で実現されているのだ。


それでは、この「自由の完成」をもたらす「「察知」と「願望」の無限速度機械」とは何であろうか。それは何を意味しているのか。あるいは何で有り得るのか。私たちが大人であるとすれば、その環境をどう評価すべきであるのか。吉本が示唆するような「人工都市」や「人工的な自然」を作り上げるのがその「機械」であるとすれば、その「機械」に対して私たちはどのように向き合うべきなのであろうか。その問いへの答えは、極めて現代的な意味をもって求められている。


ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)