民主主義の振幅


2007/03/09(金) 22:00:16 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-325.html

塩川伸明HPより、市野川容孝『思考のフロンティア 社会』(岩波書店、2006年)の書評(稲葉さんブログ経由)。


http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/ichinokawa.htm


すごく解り易く示唆に富む文章だ。


 著者の叙述は全体としてはきめの細かいものだが、レーニンロシア革命についてだけはきめの細かさを欠き、一刀両断的な割り切り方になっている。そのことと関係して、ローザ・ルクセンブルグレーニンの関係も、あまりにも黒白二元論的なものとなっているように思われてならない。(中略)
 誤解を防ぐために断わっておかねばならないが、このように指摘するからといって、私はレーニンが民主主義者だったとかレーニン主義が民主的だったといおうとするのではない。レーニン主義の実践的帰結は紛れもなく非民主的なものだったし、それは単に不幸な外的条件とか後継者の逸脱だけに帰されるものではなく、レーニンの思想の中にそのような帰結を招く要素があったことも認めなければならない。ただ、「そのような帰結を招く要素があった」ということと「最初からそういうものでしかなかった」ということの間には距離がある。レーニンは主観的には自己を民主主義者と考えていたが(11)、そのような思想を拠り所とした運動でも実際には非民主的な帰結を招くことがある――この点にこそ、究明すべき問題がある(12)。これは単に過去のよその国の問題ではない。今日、「自分はレーニンとは違って民主主義を尊重している」と考えている人たちも、場合によっては、その主観とは裏腹な帰結に至ることがあるかもしれない。「レーニンは民主主義を否定したからレーニン主義の産物も非民主的だった」という風に直線的に考えるなら、この深刻な問題が見失われる。


 敢えてやや飛躍を含んで、私の感じる最大の疑問をいうなら、「民主主義」が弱者保護に否定的反応を示すとき、それにどのように対処するのか、ということになる。ある時期以降の世界では、弱者を単純に放置してよいという考え方はおおっぴらにはとりにくいものになり、様々な形での社会政策・福祉政策がとられるようになっている。弱者への配慮ということ自体は人道的な価値を帯びており、それを正面から全面的に否定する人は滅多にいない。だが、それにかかる負担を過大に負わされていると感じる――その感覚の当否はもちろん別問題だが――人々の数も次第に増大しつつあり、そうした人々の不満が鬱積しつつあるというのが昨今の状況であるように思われる。そしてそうした不満が「多数派」の声となるなら、「民主主義」はそれを否定しきれないのではないだろうか。


なるほど。レーニンについてはそうであるとして、シュミットについてはどう捉えるべきなのだろうか。


神話的暴力としての民主主義について
Aを超えるA


結論を出すつもりはないが、似たような事は言えそうな気がする(もう言ったのか)。


社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)