スピリチュアル的なものとモノ・サピエンス的なもの


2007/04/29(日) 17:41:13 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-337.html

今期、学部1年生向けの「社会科学概論」という講義にもぐっている。この講義は社会学部の必修講義なのだが、二人の教員がそれぞれ同名の講義を同時に行っており、どちらか一方を履修することになっている。私が今出席しているのは、昔履修しなかった方の教員による講義である。この教員の方は、本学部の名物教員の一人なのだが、私は何故かこれまで縁がなく、この方の講義を履修したことがなかった。


で、これが徹底的に受講生を軽侮して、挑発し、煽っているものだから、聞いていて非常に面白く、時々笑いをこらえるのに苦労する。同時に、やっぱり大学教員はこういう知的挑発を担う者であらねばならないよなぁ、などとある種の感銘を受けたりしている。私の先生は良くも悪くも優しいので、ああいう方法は採れないな、と比べてみたり。まぁ、非常に色んな意味で面白い。


で、先週の講義では某宮崎駿アニメを題材にして、産業資本主義社会における支配の構造の解明に燃えていらっしゃったわけだが、これを聞いて感じたことを少し。


ぐうたらで目に輝きがなかった主人公は、迷い込んだ不思議な世界で豚になった両親を助けるため、産業資本主義を象徴する湯屋で職を得るが、その際に固有名を奪われる。彼女は労働過程で自らの名を忘れかけながらも、人間の欲望を利用して相手を呑み込む怪物に臨んで欲望を否定し、逆に怪物の起原を問い返すことによって、固有名を剥奪する欲望連鎖のシステムからの脱出の経路を開く。そして、かつて幼い自らを救った河川の化身との再会を経て、最終的に固有名を取り戻すと同時に、人間としての目の輝きを取り戻すのである。


要約するとこんな感じになるであろう講義(私は個人的にはこの映画を見ていないので、映画全編については知らない)を、いかにもヘーゲル的・疎外論的な人間回復物語の展開だなぁと思いながら、興味深く拝聴していた。私は宮崎アニメをほとんど見ておらず、それを人に言うと有り得ないとか言われてしまうのだけれど、そういう消費社会批判のメッセージがあるのかね。


で、動物(豚、カエル、ナメクジ)たることを否定して人間たるべく欲望を自制するという人間主義(でも宮崎アニメは人間中心主義ではないから、その辺はどう整合するのかな)や、奪われた固有名を取り戻して本来の自己を回復せよといった「生き生き志向」(仲正昌樹『デリダの遺言』)がクリアに出ているなぁ、で終わっては私も進歩がないので、聞きながらその先を考えていた。


欲望をかき立てる市場原理主義や消費社会への批判に伴う欲望の否定(ではなく「自制」しか意図していないかもしれないが、ここは単純化しておく)は、どこへ行くのか。結局、宗教的なものとか「スピリチュアル」的なものに行き着いてしまうんじゃないかなぁ。


というのは、消費社会における個人=消費者は固有名を奪われて「権力」(市場?資本?欲望?)に支配される一つの駒や記号と化してしまう、と言われるんだが、しかし現代の消費社会の原理は、むしろ消費者をアイデンティファイした上で、パーソナライズドされた欲望を個別に刺激するような構造を求めていることがしばしば指摘されている。もちろん、そこで構成されるのはあくまでも購買データや諸属性から仮構される消費者像でしかなく、固有名が存在していない点は変わっていないのだ、などと反論することは可能かもしれない。だが、それにしてもこうした個別的な欲望を否定することは、何らかの一般的人間像への一体化を求めること、(ヘーゲル=)シュティルナー的術語を交えて言えば、何らかの非自己・神・「精神」への合一を求めることになってしまうんじゃなかろうか。


例えば、いつからか「自分探し」とか言ってやたらと自己の固有性、「本来の自己」にこだわる風潮が強くなったけど、あれも結局どこに帰着するかと言えば、濃淡こそあれ、右翼左翼や宗教、スピリチュアルとかが多いんだろう。また一方でスローライフとかロハスとか、欲望を自制して自然と合一するようなブームがあって、こっちは何か逆説的?に消費社会の論理に回収されていく傾向がある(スピリチュアルもか?)ので、単純には言えない。けれども、まぁ何か自己の固有性とか起原とかを求める中で絶対的なものとの接続や合一への欲求に行き着いて、政治とか宗教とか「大きな物語リバイバルや、自然環境とかの比較的新しいかな?でも別種の「大きな物語」だよね、といったステージに乗っかっている様子は知れる。大雑把で乱暴なまとめだが、そう見える。


そんなことをグダグダと考えていたら、鈴木謙介『<反転>するグローバリゼーション』(NTT出版、2007年)218‐219頁に丁度似たことが書いてあった。文章だけ一部引用しておくので、図は各自確認して頂きたい(なお、明らかな誤植を訂正した)。


 図7は、右派と左派の双方において、グローバリゼーションへのリアクションという側面も含めて、近年強くなっている新しい傾向が、どのような形で互いに結び合っているかを示したものである。左派の場合、福祉国家的な管理のあり方に対して異議を投げかける意味で生じた、下からのネットワークとしての市民運動が、現在における環境保護や相互扶助の共同体へ向けられた動機の源泉を提供している。他方、右派の側でも、新自由主義的な発想と相容れない部分を有した保守主義が、市場のグローバリゼーションに伴って、いっそうその矛盾を強め、家族や父性の復権、道徳や「品格」の意義を強調するようになっている。
 この両者を媒介するのが、実体化された本質主義としての「鎮守の森」的なもの、スピリチュアリティのような神秘主義、あるいはそこから導かれる祖先崇拝といったものである。これらの要素は、右派にとっては「伝統」的な関係を構築するための根拠として採用され、左派にとっては、「人間本来のあり方」に基づいた、非市場的な人間関係を構築するためのよすがとして用いられているのである。


これを読むと右派左派を横断して拡大しているコミュニタリアン的心性や現代共和主義的立場などについても思い出さざるを得ないし、反スターリニズム福祉国家批判と関わる60年代以後の諸運動の歴史を改めて勉強しないとと思わせられる。それは、現在の新自由主義とか「第三の道」などを含めた政治的対立の混迷が全てそういう歴史と深くかかわっているから。思想史・運動史、重要だぞ、と。


まぁ、それはともかく、右派左派を横断するスピリチュアル的なものの反対の極に何が来るかというと、(鈴木は書いていないが)要するに欲望の徹底的な肯定であり、物質主義の果てとしての、「モノ・サピエンス」的なものだろう(岡本裕一朗『モノ・サピエンス』)。文脈によっては「ポスト・ヒューマン的なもの」とか「グーグル・アマゾン的なもの」などと言い換えられるかもしれないし、今一つ包括的な良い名前を思いつかないが、まぁそういう感じだろう。こちらの極を代表しそうなのは言うまでもなくリバタリアニズムであるが、より一般化した形では個人の権利とか自由、相対主義ないし多元主義といった感じだろうか。


私はこちらの極も結局「精神」への一体化に繋がる危険があると言えそうな気がしているし、そのうち言いたいと思うが、それはともかくとして一層入り組んでいるのは、モノ・サピエンス的な論理がスピリチュアル的な論理を包摂し得る構造を持っているように見えることである。それはスローライフロハス、スピリチュアルなどをスローガンにしたビジネスモデルの話でもいいし、あるいは地域のセキュリティにおけるリバタリアニズム=市場の論理コミュニタリアニズム自治の論理の結託が、公共空間の二重のプライバタイゼーション(治安共同体)をもたらしていることなどでもいい(参照*1)。思想的用語を使えば、東浩紀が言う「ポストモダンの二層構造」というやつである。


こういう話をすると何だか出口が存在しないように思えてきたりするし、思想的には最も多数派であるはずのリベラルがこういう図を描くときには姿を消すことの意味を考えてみたりもするわけだが、別に現時点での結論があるわけではないので、この話はこれでおしまい。


デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

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“反転”するグローバリゼーション

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モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類 (光文社新書)

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コメント

面白く読ませて頂きました。実は私もこの授業に出席しているのでびっくりしました。良かったら今度お茶でもご一緒しましょう。私は「千にされた自分を千尋に戻すことが、学生にとっての社会科学を学ぶ意義だ」という先生のメッセージを、「①=自分を取り囲む様々な社会の拘束性に気づき、②=その上で主体的に生きなさい」という2つの意味を含んでいるんだなと解釈しました。しかし、①は社会科学を学ぶ意義として何となく分かりますが(先生の議論の強調点も主に①にあると思います)、そのあとに来る②は、具体的にどのような生き方を指しているのか、けっこう曖昧ですよね。それこそきはむさんがここで考えた思想的問題を、細かく考えていく必要があるのだと思いました。
2007/05/01(火) 11:43:27 | URL | Sillitoe #- [ 編集]


あら、そうでしたか。そうですね、丁度その後の講義で新自由主義を勉強しているので、自由主義思想についてのお話を聞けたりしたら嬉しいです。是非ご一緒しましょう。


学部1年生向けの講義(の序盤)としてはとても良いと思うのですけれどね。ただ「主体的に生きなさい」と言われても、主体的とはどういうことか、主体的であることは可能なのか、主体的でさえいればいいのか、主体的であることはそもそも望ましいのか、などと色々と考えてしまいます。まぁ先生の方にそれに対する答えが無いわけではないでしょうし、まだ講義も序盤ですしね。5年前はダルいだけだったこの講義(別の先生でしたが)を改めて受けることで、色々な意味でのヒントが見つけられればいいなと期待しています。
2007/05/01(火) 19:34:15 | URL | きはむ #- [ 編集]
ずいぶんとローカルなネタで盛り上がってるな笑。千と千尋疎外論的解釈は、間違っていないとは思うけど、そこで止まってたら面白くもなんともない疎外論だと思います。生徒を煽るにしても、そこまでいかないと、もはや単純な疎外論ではナイーブな学生しか食いつかないのでは。お書きになっているような内容まで広げられれば、もっと多くの生徒が食いついてくるでしょうに、もったいない。そこらへんは、ポストモダン以後の思考を拒否し、その近辺の問題に対する感受性を持たない、彼の(みんなそっちになびいてしまう昨今の状況では稀有という意味で貴重だし、もっと突き抜ければ面白いかもしれませんが)限界なのかもしれません。


後半部は興味ぶかいですね。私の周りにはけっこうスピリチュアル系がいるので納得がいく感があります。私も鈴木謙介読んでみようかな。最近気が付いたのですが、宮台真司とか仲正昌樹とか北田あきひろとか(最近はNHKブックスにそういうの多いね)、そっち系の本には(個人的な)癒し効果があって、他のものは読みたくなくても、あるいは何もしたくないときでも、案外すらすら面白く読めていいです。
2007/05/01(火) 22:32:02 | URL | dojin #- [ 編集]


どうも。仰せのとおり、一つ目のコメントは削除させていただきました。


「正統派」(マルクス主義)社会科学の立場からすると、致し方ない部分があるのでしょうかね。それゆえの切れ味というものもあるでしょうし。そういえば、水田洋大先生も『社会思想小史』でフーコー以降のポストモダン思想をバッサリ切って冷淡な態度を示していました。私の印象としては「みんなそっちになびいてしまう」というよりは、二極化して没交渉になっている感じに見えます。まぁ、最近はポストモダン系左派も政治化してますから、距離は縮まっているかもしれませんが。


受講者のどれだけが疎外論に魅了されるのか分かりませんが、社会科学入門としてはああいう一種の一貫した見方を提供するのはアリだとは思いますよ。一つの講義にあまり多くのものを求めても詮無いですし、むしろ単純でも面白い講義をするとか、このヒト何か(ある意味)スゲーな、と思わせてくれるのが良い先生なんだと思います。宮台がよく言っている「感染」というやつですかね。


スピリチュアルなどの話は、間違っているとは思いませんが、下手に扱うと俗流若者論的に聞こえてしまいかねないので(若者だけの話をしているわけではないが)、統計的・実証的な側面に目配りした慎重な検討が必要だと思っています。


ちなみに私は、その三人の中なら仲正が一番読んでいて面白いので、いわゆる「月刊・仲正」の刊行をいつも楽しみにしています(最近は刊行ペースが減速した気が…)。
2007/05/02(水) 18:57:02 | URL | きはむ #- [ 編集]


鈴木謙介です。誤植のご指摘ありがとうございました。意義→異議ですね。運良く増刷がかかることがあれば訂正させていただきます。
2007/05/04(金) 10:12:42 | URL | charlie #CnnEYPK2 [ 編集]


>それはともかくとして一層入り組んでいるのは、モノ・サピエンス的な論理がスピリチュアル的な論理を包摂し得る構造を持っているように見えることである。


>思想的には最も多数派であるはずのリベラルがこういう図を描くときには姿を消すことの意味を考えてみたりもする。


姿消しちゃうんですか?もう少し詳しく聞きたいから差し支えない範囲で教えて下さい。
2007/05/04(金) 14:09:23 | URL | dojin #- [ 編集]


>鈴木さん


どうも。御本、興味深く拝読させていただきました。アナーキズムを結構長く研究されていたことを初めて知って少し意外に思いました。プルードンの話など面白かったです。


>dojinさん


要は、どこに位置付ければいいのか分かりにくいということで、あまり深い意味はありません。「リベラル」というラベルが多義的なせいもあるでしょう。


社民主義的意味で使うなら簡単で、(モノ・サピエンス=上、スピリチュアル=下とした場合)真ん中やや左上に位置する福祉国家思想と一体化させて考えられます。その場合、物質主義とか官僚主義のラベルを引き受けることになるでしょう。


問題は、もう少し政治哲学的意味で使う場合で、まぁリバタリアニズムコミュニタリアニズムの間(=結局真ん中?)だと言えばそうだろうし、リバタリアニズムコミュニタリアニズムも基本的にはリベラルの土俵の上に居ると言えばそうだけど、それだと(保守以外)ほとんどリベラルになっちゃうし、「真ん中」とか「ほとんど」とかだと結局わざわざ図に書く意味も無いよなと思っちゃうわけです。


極端と極端の話をしているから、ということではありますが、リベラルって結局何なのかということはやはり解りにくい。思想的に多数派と言うのは、要するに意味が広いからでしょうかね。政治哲学的意味に純化して、諸価値に対する中立性がリベラルのエッセンスであると基本に忠実な考えで行くなら、それはやはりどちらかと言えばリバタリアニズムに近い。結局皆リベラルの土俵の上と言うのも、リベラリズム(あるいはその極致としてのリバタリアニズム)がメタ・ユートピア的に多元的な価値を両立できるから、という意味で捉えられると思います。いずれにせよこういう図に書く意味は薄い。


あまり実のない話ですいません。ああ、そういえば、こういう価値多元主義の「外」に放擲される者の抵抗と「内」でワンオブゼムにされてしまう者の反発、というのが『<反転>するグローバリゼーション』の一つのテーマでもありましたね(この理解で合ってるかしら)。
2007/05/04(金) 23:09:21 | URL | きはむ #- [ 編集]


ご返答ありがとうございます。先日さっそくきはむさんにメールを送らせて頂きました。近いうちにお会いできることを楽しみにしております。dojinさんとのやり取りも大変刺激的ですね。私もポストモダン思想を読んでみようかな。


>リベラルって結局何なのかということはやはり解りにくい。思想的に多数派と言うのは、要するに意味が広いからでしょうかね。


同感です。「自由」や「自由主義」概念、それぞれの多義性のみならず、双方の関係もまた複雑ですからね。マルクス主義が影響力を持っていた頃は、「自由主義=資本主義体制擁護のイデオロギー」としてバッサリ切ってしまっても、それはそれで学問的にアリだったのかもしれませんが。今はもう少し、それぞれの概念を厳密に考察していく必要がありそうですね。
2007/05/06(日) 00:19:51 | URL | Sillitoe #- [ 編集]


いまさらだけど、


>生徒を煽るにしても、そこまでいかないと、もはや単純な疎外論ではナイーブな学生しか食いつかないのでは。


「そこまでいかないと」はいりませんね。文章書き直す際に残ってしまいました。でもなんで編集できないんだろう。。。?


鈴木謙介氏の本、本屋で立ち読みしたけど、あえて買うのは禁欲しました(笑)ほっとくとこういうのばかり読みそうだから。


ところで、リベラリズムがどう位置づけられるのか、というのは興味ぶかいかもしれないですね。私はゆえあって、スピリチュアル系だけでなく地域セキュリティ系も最近接触があるのですが、すくなくとも地域セキュリティ系は、リベラリズムとは相容れないところがあるとは感じています。


ただ、地域セキュリティ系は、コミュニタリアニズムとか何とか思想的に大雑把にくくる前に、いったいどういう人がどういうモチベーションでどういう活動をしているのか、行政のどの部分とどのように繋がっているのか、ちゃんと把握する必要があるのも確かです。その意味で、「東京から考える」の印象論的おしゃべりは社会学的には不十分です。でもまぁそれは誰かがそのうち、フィールドワークでもするでしょう。もうあるのですかね?


私はここらへんを深く突っ込む余裕はありませんが、自分の研究とまったく無関係というわけではないので、興味はあります。
2007/05/06(日) 11:08:50 | URL | dojin #- [ 編集]


訂正願い
きはむさん、以下、このように訂正した上で、このコメントを削除して下さると助かります。毎度お手数おかけます。どうしたら自分で訂正できるのでしょうか?パスワードを設定すればいいのでしょうか?


>鈴木謙介氏の本、本屋で立ち読みしたけど、


鈴木謙介氏の本、本屋でちょっとだけ立ち読みしたのですが、」


>「東京から考える」の印象論的おしゃべりは社会学的には不十分です。


「『東京から考える』の印象論的な分析は、興味深かったのですが、不十分だと感じています。」


みなさま、私の尊敬する社会学者・評論家ですので、万一本人が読んだときに、気分を害さないような表現に変えたいのです(笑)。これ読まれたらあんま意味ないですが。。。
2007/05/06(日) 11:22:00 | URL | dojin #0sMGOP1I [ 編集]


>Sillitoeさん


メールありがとうございます。ご一緒しましょうと言いつつアドレスも明示してませんで、お手間かけさせてすいません。そのうち直接お話しできるでしょうこと、楽しみにしています。マルクス主義が強固だったころは、どの立場もそれに対する距離感で位置どりできたから便利でしたね(世代的に実態は知りませんが)。ポストモダン左派が政治化しているのも、90年代以降のマルクス主義の目に見える退潮が一因だと思われますし。


>dojinさん


パスワードを予め入力しておかないと編集はできないようです。私もあんまり詳しくないのですが、管理者はコメントを削除はできても編集はできません(と思います)。訂正願も併読されればdojinさんの敬意と配慮は十分に伝わると思いますので、そのままにしておくということでご理解ください。『東京から考える』が基本的に雑談であり、あまりにも大雑把なのは著者たち自身が重々承知だと思いますので、あんまり気にしないと思いますしね(センシティブな問題に対してより無頓着な東を北田が一生懸命フォローしていましたね。私は無頓着であることに意識的な東の語り口が好きですが)。


地域セキュリティとリベラリズムが相容れないというのは、閉鎖的・排他的であるという意味ででしょうか。監視カメラとか環境管理などについては一生懸命研究している社会学者が最近多いようですし、地域セキュリティ一般についての実証的研究もこれから増えてくるでしょうね。コミュニタリアニズムは思想的立場と言うより、もはや心性とか思考傾向などと言った方が適切なものですから、具体的現実についてその影響を云々してもあまり実りがない気はします。公権力やネオリベ勢力の意図ということでも(必ずしも)なく、要は複雑なものが絡まりあった結果の「力学」なんでしょう。だから、仰る通り、住民・行政・市場という主なアクターがそれぞれどういう目的でどのように関わり合っているのか、ということを具体的に見ていかないといけませんね。


ただ、その結果色んな現実が見えてきたとしても、リベラリズムは多分それに対して是々非々で、これだっていう立場は結局持たないような気がします。それはまぁ長所でしょうが。
2007/05/06(日) 21:59:38 | URL | きはむ #- [ 編集]


>地域セキュリティとリベラリズムが相容れないというのは、閉鎖的・排他的であるという意味ででしょうか。


そういうことです。こういうことをボランティアとしてやっている方々でも、そういう問題に(なかば無意識的に)敏感である方と鈍感である方がいるようです。
2007/05/09(水) 01:25:59 | URL | dojin #0sMGOP1I [ 編集]


なるほど。ただ、仮にそれが感受性レベルの問題だとすると、思想的にはリベラルを自称しているような人でも、遂行的には自分の思想を裏切ってしまうような人がたくさん出てきそうな気がします。それはリベラリズム思想に属する問題ではなく、個々の論者に属する問題であるかもしれませんが。
2007/05/10(木) 19:23:43 | URL | きはむ #- [ 編集]