フックとしての人格陶冶論


2007/06/06(水) 22:12:16 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-344.html

金田耕一「リベラリズムの展開」川崎修・杉田敦編『現代政治理論』(有斐閣アルマ、2006年)では、順にロック、スミス、ベンサム、J.S.ミル、T.H.グリーン、スペンサー、フェビアン協会、ホブハウス&ホブソン、ケインズ&ベヴァリッジハイエクといった面々について述べられている。それをパラパラと眺めていて今更ながら、いわゆるNew Liberalism(ここではミル、グリーンからホブハウスらまで)における自由主義思想の転回と、その後の継承について考えさせられた。


ここで「転回」と呼ぶのは、ニューリベラリズムについて必ず言われる福祉国家思想の源流ないし基礎となったような国家の役割重視のことではない。そうした考え方と並行して、あるいは密接に結びついて唱えられた人格陶冶論のことである。


ミルがデモクラシーの拡大に臨んで政治参加による大衆の人格陶冶に期待していたことは、デモクラシー理論史で必ず触れられるので有名である。そして、ミルがそうした期待を表明せざるを得なかった背景に、デモクラシーが多数者の専制をもたらして個人の自由と幸福を破壊しかねないのではないかという危惧があったことも、よく知られている。利己的な大衆が政治参加によって公共的市民へと人格的発展を遂げるはずだというミルの期待は、多数者専制への恐怖と密接に結び付いている。


グリーンについて私は多くを知らないが、真の自由とは他者と協力しながら達成する人格の完成(=共通善)に見出されるものだ、といった主張をしたようだ。国家には市民が人格を発展させる自由を保障するために、人格発展の妨げとなる外的障害を除去する義務があり、そうした国家の仕事の上に市民の政治的義務が成り立つのであるという。


ミルやグリーンより少し時代が下って、ホブハウスはどうか。彼についても私の知識は無に等しいが、グリーン同様、人格的発展を自由の基礎において、その追求が公共の責任であると共に個人の権利及び義務であると考えたようだ。グリーンとの差異は、個人が人格的発展をなす上での国家の役割を「外的障害の除去」に留まらず、必要な条件を積極的に保障することに求めた点にあるとされる。エリート主義的であったフェビアン協会を批判し、個人の自由の尊重と大衆の積極的政治参加を重視していたという。


ニューリベラリズムは、ケインズベヴァリッジに影響を与え、戦後の福祉国家を準備した思想であると説明されるのが普通である。しかし、上のように見てくると、私たちがイメージするいわゆる福祉国家的なものとは少し違うという印象を受ける。戦後の福祉国家が人格的発展の助けになったと強く主張する人はあまりいない。むしろ物質主義に過ぎるとか、自立心を損なわせたなどとして福祉国家批判が行われるのが常である。また、巨大な官僚システムと中央集権に基づいていた福祉国家は、大衆参加よりもエリート主義に近いと考えられることの方が多い。ニューリベラリズムの本旨は、福祉国家思想への継承の過程で忘れ去られたのだろうか。


どうも、そうらしい。佐々木毅「二十世紀の自由主義思想」佐々木毅編『自由と自由主義』(東京大学出版会、1995年)では、「新自由主義の遺産を受け継いだケインズらにおいて、経済体制の統制・運営はエリートの仕事と位置づけられ、共同体主義的倫理と民主政治への色彩で支配されていた新自由主義とは違った調子を響かせ始めた」と述べられている。現代の公民的共和主義やコミュニタリアニズムと重なるようなニューリベラリズムの主張の基礎は少なくともいわゆる福祉国家思想の中にそのままでは継承されなかったようである。


私が興味を覚えるのは、継承における断絶だけではなくて、ミル以来の流れを通時的に見た時の印象である。これは考察と言うほども無い、雑駁な感想と言うか、印象・思いつきにすぎないのだが、こう見える。


従来のデモクラシー、すなわち教養と財産のある比較的均質的な政治主体と比べて、無知で利己的な大衆はそのままでは政治主体たり得るとは思えなかったし、彼らが多数をたのみにして政治を支配するのではないかという恐怖は拭い難かった。それゆえ、古典的自由主義が大衆の要求に応じてデモクラシーの拡大を受け入れるためには、政治参加による人格的発展に期待するというフックを持ち出さざるを得なかった(ミル、グリーン)。単なる強制の排除(消極的自由)ではない積極的自由という観念を持ち出す必要があったのである。さらに時代が下ると、こうした人格的発展の物質的基礎として、より直接的で具体的な諸権利が要求されるようになる(ホブハウスら)。しかし、単なる物質的利益を超えた人格的発展という課題が現実的に受け止められ、真剣に取り組まれ得る条件が整うまでには時間がかかる。戦後の福祉国家成立においては、人格的発展や大衆参加といった課題は置き去りにされたが(ケインズベヴァリッジ)、それは人格的発展の物質的基礎を現実的に整えるためにはエリート主義的官僚体制が必要であったという逆説がもたらした結果である。結局、人格陶冶や共通善、積極的な政治参加など、ニューリベラリズムが提起した本来的課題が再び取り上げられるようになるには、ある程度の物質的充足が達成されると共に福祉国家体制が曲がり角に至ったと見做され始める時点(概ね1970年代)まで待たなければならなかった。


このように見ると、現在の公民的共和主義やコミュニタリアニズムは、ニューリベラリズムが提起しながらそれ以降置き去りにされた課題を思い出したように拾い上げたにすぎない。コミュニタリアニズムがリベラルの分派にすぎないという意味もよく了解できる。


しかし、それ以上に私が強調したいのは、人格陶冶論がフックとして持ち出されたにすぎない(ように私には見える―いや、そう見えないこともない、ぐらいか)ということである。見ようによっては、政治参加による人格的発展論というのは、古典的自由主義を体現するような財産と教養のある人々が政治を独占していた時代(スミス的「共感」論が成り立ち得る均質性の高い時代と言ってもよい)のノスタルジーを辛うじて満足させるために持ち出された苦肉の策といった程度の存在ではなかろうか。仮にそうだとすれば、政治参加の中に利益実現以上のことを求めようとする人々は、(ギリシアやローマへの郷愁を含めて)特定の時代・地域への郷愁を引き伸ばして自身の理論を組み立てているだけではないのか。


と言ったら乱暴すぎて共感を得ないだろうな。まぁ、あんまり詰めて考えた話ではないので、そう真剣に受け取らないで欲しい。ミルをしっかり読み込まないと、きちんとしたことは言えないし。Sillitoeさんによれば、Michael Freeden,The New Liberalism: An Ideology of Social Reformがニューリベラルのスタンダードな概説書で、A.Simhony&D.Weinstein,The New Liberalism: Reconciling Liberty and Communityがリベラル・コミュニタリアン論争を意識した論文集とのこと。教えてもらったものの、私は修論を言い訳にして手を出さない。


現代政治理論 (有斐閣アルマ)

現代政治理論 (有斐閣アルマ)

コメント

面白く読ませて頂きました。私自身もきはむさんの示唆を受けて、最近、新自由主義のデモクラシー論に注意するようになりました。私見ではきはむさんの仰る「政治参加による人格的発展」という要素は、グリーン、ホブハウスにももちろんあったようですが、彼らの強調点は、ミルのそれとは異なり、より「共同体主義的」なものになっているという印象を受けます。


私はグリーンはまだ読んだことがないのですが、定評のあるアーネスト・バーカーの『イギリス政治思想』(岩波)の中のグリーン解説によれば、グリーンはデモクラシーの問題そのものや、具体的な政治改革の問題には、あまり踏み込まなかったとのことです。グリーンはむしろ、デモクラシーの根本前提として、国家権力の源泉が諸個人の共有するルソー的「一般意志」にあるという点や、そうした「一般意志」に基づく理想的な権利義務関係を妨げる、現実の社会問題の改善の必要性などを、それぞれ強調したようです。この意味でグリーンの理想主義哲学は、政治思想よりも社会思想の要素が強いと言えるかもしれません。


ホブハウスの方は、こうしたグリーン哲学を組み込みつつ、より具体的なデモクラシー論を展開しているように見えます。しかしそこでの強調点は、「多数者の専制」に対する恐怖や「特定の時代・地域への郷愁」というよりは、やはり共同体の発展のための不可欠な前提として、あらゆる市民のナショナル、ローカル双方における、積極的な政治参加を位置づけるという点にあるようです。こういう認識は、部分の発展と全体の発展を有機的に捉える、ホブハウスの社会観からも来ているようです。


きはむさんが仰るとおり、こうした新自由主義の倫理的側面は、戦後福祉国家体制には全く継承されなかったようです。これには戦間期に、福祉の問題が階級政治と結びつけられて自由主義よりも社会民主主義の要素が強まったことや、ファシズムの影響による英米でのデモクラシー観の変容などが要因として考えられるかもしれません。そう考えると、世紀転換期当時に新自由主義が社会改革思想として独自の位置を占めた1つの要因として、上で述べたような彼らのデモクラシー論があるような気がしてきます。これはなかなか面白い観点であるかもしれません。長文、失礼しました。
2007/06/08(金) 14:24:05 | URL | Sillitoe #- [ 編集]


補足、ありがとうございます。確かに、ミルとグリーン=ホブハウスの間には内在的論理の違いがありそうですね。


きちんと読んでいないので自信があるわけではないのですが、ミルの人格陶冶論って時代状況に押されて受動的(?)に出てきたような印象があります。それと比べるとグリーンやホブハウスの理論においては、もっと中心的な位置にこれが来るわけですね。社会有機体説も背後にあるのか。


そうすると全くコミュニタリアン的と言うか、「共通善」的なものへの志向が強いんだと思いますが、その場合、自由主義の本義であるところの寛容とか国家の中立性などの主題はどう位置づけられることになるのでしょうか。リベラル・コミュニタリアン論争ではそれが最大のテーマの一つだったわけですが。


いずれにしても、利益対立や(階級その他の)敵対性が高まっていくあの時代に(社会の一体性を想起させるような)「共通善」を唱えてもあまり現実味は無かった気がします。そういう時代だからこそ敢えて唱えたのかもしれませんが、少なくとも継承はされず、「階級妥協」的な戦後福祉国家建設の後景に退いた、と。


うーん、もう少し勉強しないと何とも言えませんが、何か面白い切り口は潜んでそうな気はします。いまや「新自由主義」と言えばネオの方ですが、ニューリベラリズムの「新」しさを見直してみる必要性は凄く感じます。なのでSillitoeさんに頑張ってもらいましょう。
2007/06/08(金) 18:49:37 | URL | きはむ #- [ 編集]


>そうすると全くコミュニタリアン的と言うか、「共通善」的なものへの志向が強いんだと思いますが、その場合、自由主義の本義であるところの寛容とか国家の中立性などの主題はどう位置づけられることになるのでしょうか。


この辺りは、グリーンの一番弟子B.ボザンケットのヘーゲル主義的国家論および自由論に対する、ホブハウスの自由主義の立場からの厳しい批判などを見ていくと、よく理解できることかもしれません。私もまだ勉強中で確かなことは言えませんが、ホブハウスは消極的自由と積極的自由を二者択一的に捉えていたのではなく、人格陶冶というミル的視点から、両者の統合を図っていたようです。それが理論的にどのような意義と限界を持っていたのかを理解することが、私自身の今年の目標なのですが、ホブ思想の範囲の広さと深さのせいで、なかなか道は険しそうです。


>いずれにしても、利益対立や(階級その他の)敵対性が高まっていくあの時代に(社会の一体性を想起させるような)「共通善」を唱えてもあまり現実味は無かった気がします。


そうですね。第一次大戦前の自由党政権期には、自由主義はそれなりの説得力を持っていたようですが(ロイド・ジョージも地主階級に対する資本家−労働者の利害一致を唱えていたようです)、やはり大戦と戦間期に、時代の雰囲気は大きく変わってしまって、新自由主義思想の持っていたある種の楽観性というものは、説得力を無くしたようです。ただ福祉の領域に関しては、理想主義的なアイデアが、1930年代くらいまで影響力を保ち続けたという研究もありますので、理想主義的な道徳的要素が福祉国家の領域から消えてしまうのは、もう少し後の、第二次大戦後の話かもしれません。


>ニューリベラリズムの「新」しさを見直してみる必要性は凄く感じます。なのでSillitoeさんに頑張ってもらいましょう。


エールありがとうございます。新自由主義の「新しさ」が何であり、それを「今」見直すことの意義が何であるかを考え続けるのは、とても重要なことだと思います(それを考えないで勉強する人は、言葉は悪いですがオタクでしょうね)。ただやはり過去の思想ですので、時代の文脈やそれによる限界を踏まえないまま、現代の状況に安易に適用することはできないと思っています。何年か勉強した後に、現代的な意義というものが少し見えてくるかなあと、気長に期待しています。
2007/06/10(日) 22:56:24 | URL | Sillitoe #- [ 編集]


ふぅむ、なるほど。勉強になりますね。


>ホブハウスは消極的自由と積極的自由を二者択一的に捉えていたのではなく、人格陶冶というミル的視点から、両者の統合を図っていたようです。


この辺りが特に気になるところです。単純ではなく、やはり懐は深いということですか。私も将来的に自由論を少しやりたいと思っているので、参考にしたいところです。是非また、色々教えてください。
2007/06/11(月) 21:45:37 | URL | きはむ #- [ 編集]


そういえば、こういうものもあったと思いだしたので、メモ。ミルにご関心の向きに。


http://court.law.okayama-u.ac.jp/~odagawa/pdf/odagawa200305.pdf
2007/06/19(火) 15:28:58 | URL | きはむ #- [ 編集]