民主主義とは何か


2007/06/18(月) 20:39:55 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-345.html

価値理念としての民主主義と区別される概念としての民主政とは、当該政治的共同体内における対等なメンバー間による討論と投票によって政治的決定を為す政治体制を意味する。民主政が最低限果たしている役割は、「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」ことにある(鄯)。一般に、基本的人権を認められた個人は、自己に関わる事柄について、他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利を持つとされる。だが、各人の意見や諸権利は対立することがあり、その対立が特に社会全体に関わる事柄である時には、統一的な決定がなされねばならない。その際、政治的決定手続きとして民主政が採用されることになるが、民主政における最終的決定手続きとして全員一致方式が採られることはあまり多くない。なぜなら、あらゆる場合に全員一致の決定を得ることは非常に困難であり、全員一致が実現できない場合には、極めて少数の成員の自己決定権を尊重するために大多数の自己決定権を実現できないことになるためである(鄱)。三分の二など過半数よりも多い賛成を必要とする特別多数決も、同様に少数決としての性格を持つことから、採られる場合が少ない。最もよく用いられるのは過半数の賛成で決定とする単純多数決であり、それは、一般に、この方式ができるだけ多くの自己決定権を実現するために最も適した方式であるためである(鄴)。


 政治体制としての民主政と、決定方式としての多数決原理は、一応は相互に独立の概念である。だが、両者の結び付きは論理必然的なものである。民主政が選択されるべきであるのは、個々人に平等な自己決定権を認める以上、まず政治的決定過程への参加可能性を確保しなければならないからである(鄽)。そして、広く一般的な政治参加の上で決定を為す際、自己決定権をできるだけ多く実現するためには多数決原理を選択しなければならない。したがって、民主政を採るべきであると考える者は、最終的には多数決も受け容れなければならない。さらに言えば、それ自体は価値中立的な政治体制であり決定方式であるにすぎない民主政や多数決を望ましいと考える価値理念こそが、民主主義の名で呼ばれるべきイデオロギーである。すなわち、ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える立場が価値理念としての民主主義なのである(酈)。


(鄯)長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』(筑摩書房、2004年)39頁。


(鄱)当然のことながら、ここで言う自己決定の権利とは、自らの参加の上で支持できる決定が為された場合にはじめて実現される権利を意味しているのであり、決定過程に参加しただけで実現される性質のものではない。たとえ参加の上であっても、支持できない決定が為された場合には、その人の自己決定権は侵害されたことになる。


(鄴)長谷部前掲『憲法と平和を問い直す』、20‐21頁。


(鄽)確かに、長谷部が述べるように(同、30‐31、38‐39頁)、民主政を選択するべき理由としては複数の理由が挙げられ得るであろうが、ここでは最も根底的と思われる理由のみを挙げた。


(酈)したがって、純粋な意味での民主主義者は、手続きの遵守を至上の価値として他のいかなる帰結的価値にもコミットしない筈である。徹底した民主主義者は、結果を問わない。実際私には、価値理念としての民主主義に真にコミットしている人は、実はそう多くないように見える。


注(酈)について少し述べよう。私は、「純粋」民主主義者と呼ぶべき人はあまりいないのではないかと思う。少なくとも名だたる思想家の中には、ほとんど存在しない(ケルゼンは少し近いかもしれない)。


いわゆる民主主義、すなわちデモクラシーとイコールされるものとしての民主主義にコミットしていると自称する人々は、実際には民主主義だけにコミットしているわけではない。「自由と民主主義」というスローガンよろしく、大方は自由とか多様性とか平等とか人格的発展とか最大多数の幸福とか、何らか他の価値を実現するためにデモクラシーという手段が最適であると考えているのである。彼らは、そうした民主主義に外在的な価値を「民主主義」という名で呼ばれる理念の中に滑り込ませようとするか、自分が信奉する価値は「民主主義」と呼ばれる理念に本来的に含まれていると最初から錯誤している。


その結果、本来は多数決を良しとする価値理念であるはず(と私が考えるところ)の民主主義思想が、しばしば自由とか平等などといった他の価値と同一視されることになるのである。「現在の民主主義は多数決主義と同一視されているが、本来の、真の民主主義はそういったものではない云々…」といった講釈を垂れている人々は、こうした歪曲ないし錯誤を体現している(枚挙に暇がないが例えばハイエク)。デモクラシー=デモス+クラティア=民衆の力は、最初から多数者の支配を意味していることを忘れてはならない。


もちろん私も自分の用語法が「本来的」であり、以後皆この用語法に習うべきだなどと素人臭い暴論を述べるつもりはないが、論理的にはこのように整理して考えるべきではないか、という程度のことは言いたい。もちろん、欧米においてはdemocracyの語に民主政の意だけではなく価値理念としての民主主義の意も多少なりとも含まれてきたわけであるから事態は単純ではないが、そうした歴史的文脈を見失わない限りでは、上記のような整理された用語法を用いることに意義はあるだろうと考える次第である。


修論を書いてしまえば民主主義思想についてまとまったことを述べる機会もあまり無いだろうから―修論は別に民主主義がテーマじゃないが―付言して述べておけば、私は卒論の最後で価値理念としての民主主義にコミットしないと述べた。しかし、民主政に関してはこれを保持するべきであると述べた。この立場は今も変わらない。そして、これまで何度か述べてきたように、私は民主政の外部に位置するような価値=正義にも決してコミットしない。したがって、私の立場は強いて言えば手続的正義の支持者であるが、民主主義そのものにはコミットしていないというひねくれたものである。これは私のエゴイズムの帰結である。私は特に宗教なども持たないから、自らの「力」を拡大して享受=賞味に結び付けるためには、社会制度として民主政の原理が徹底していた方が望ましいのである。だから私は政治参加に手段的価値しか認めないながらも、政治参加可能性を最大化しようとする。全ては一人のエゴイストの観点から主張されているのであって、決して社会のためなどではない。ただ私にとって都合が良いから。それだけの話である。


憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

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コメント

難しい議論ですね。
民主主義について何かを知りたいと思って検索しておりましたところ、きはむさんのこの論文に突き当たりました。
私のような中学での現場の人間にはとても難しく、何が何だかサッパリ分からないというのが印象でしょうか。きはむさんの御議論によれば、民主主義は結局のところ「多数決」なのでしょうか? 実は、そこのところが分からなくなって悩んでいたのですが、やっぱり多数決なんですね。
しかし・・と言いますか、何と申しましょうか。我々の身近なところでは「基本的人権を認められた個人は、自己に関わる事柄について、他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利を持つとされる」、とのお話にある「自己決定の権利」が容易に放棄され、議論さえ出来ないというのが現実です。政治や社会の問題では「オレにはどうでもいいこと」であり、孫にはカネをやっても自分が温泉に行くことさえ自己決定できない人があまりの多すぎるのです。労働組合などで意見を言えば、会社と労組双方からたちどころに差別的扱いを受けてしまうと言う状況です。このような中において「他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利を持つとされる」とのお話は、死語に近い状況にあると言っていいのではないでしょうか?
自己決定が出来ないか許されない中での「多数決」とは、一体なんでしょうか?「多数決」が民主主義であるとするなら、今日の時点で、自らを「民主的」と名乗っている集団・個人の行動は、すべて「民主主義」が正しく実行されているということになるのではないでしょうか。確かに多数決が民主主義だとしても、その民主主義がヒトラーを生み出してしまったような間違いもありましょう。だから「多数決」は民主主義ではないというわけではありませんが、民主主義は多数決だけではないと考えざるを得ません。自己決定の出来る人がより多数存在し、自由な発言がある程度保障されなければ(ホントは完全に保障して欲しいけど)、民主主義としての「多数決」がかなり危ういものにならざるを得ないと考えます。
民主主義の問題を論ずるときに、現場の声を積極的に取り上げて欲しいと思います。先にも申し上げましたとおり、政治はもとより、友人からの旅行などのちょっとした誘いさえ断って、そのカネで孫にゲームをかってやっている大人たち。地域・社会の運営に無関心なのは言うまでもありません。この現実から出発して、「多数決」こそ民主主義だと言ってみることがどれほど有効なことなのか考えざるを得ません。私自身種々なグループの間で、会員の総意をもってより良いことを決めていこうと思いつつも「わしにゃ分からん、あんたに任せるで良いようにやっとくれん。のう、皆さん」などと言われて、議論に参加してもらえないことが多いのです。私の非力と言えばそれまでですが、頑張れば頑張るほど多くの人は議論に参加せず、むしろ問題や課題を丸投げしてきます。「他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定・・」の上に多数決が成り立っているとすれば、私の悩みはますます深みにはまらざるを得ません。
それから、カタカナ語はなるべく避けていただけないでしょうか。『「コミット」しない』と言われていますが、その「コミット」というのを日本語で書いていただけませんか。辞書を引けば、「委託する、委ねる、引き受ける、約束する、のっぴきならぬ立場になる、傾倒する、自分の立場を明らかにする、犯す」などなど。そのうちのどの意味で『「コミット」しない』と言ってみえるのでしょうか?読者によって如何様にも解釈できるカタカナ語ではなく、明確な日本語によって明確な意思表示をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。
2007/08/27(月) 23:10:41 | URL | ふじの #- [ 編集]


はじめまして。コメントありがとうございます。


日本語でまかなえる意味のカタカナ語はできる限り使わないように心掛けているつもりでしたが、なお解りにくいカタカナ語の使用があり、申し訳ありません。個人的には「ある立場を支持し、それを自分の立場として積極的に引き受ける(傾倒する)」といったような意味で「コミットする」を使っていますが、基本的には「支持する」と読み替えて頂いて結構です。


私の議論は、多数決を必然的に正当化するのが民主主義理念であるという旨ですから、民主主義は多数決「だけ」ではないという立場を退けるものではありません。多数決はあくまで自己決定権をできる限り多く実現するための最適手段として採用されているだけですし、多数決原理を正当化することは、あくまで民主主義理念一般に共通するいわば最低限の条件です。ですから、私の議論の筋では、多数決以外の手段を併用することは何ら妨げられません。


無関心や不参加について、日常におけるご体験から抱えておられるお悩みに対しては慰藉の念を禁じ得ません。ただ、(全てではありませんが)多くの権利は行使することもしないこともできる性質のものであり、自己決定権も同様の性質を有していますから、不参加がそのまま「自己決定権の放棄」を意味するとは言えません。逆に、決定内容を他者に委ねるという選択も、(消極的ではあれ)一種の自己決定だと言うことはできます(もちろん、こう言ってみたところでお悩みの解決には役立たない可能性が高いでしょうが)。


また、自己決定をしようと思っても現実にはできないことが多く、「他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利」というのはお題目に過ぎないというご指摘は正当だと思います。まさに個々人が自己決定することを可能にする条件をいかに整備するのか、という論点は憲法学や政治学で伝統的に問題となっていることでもあります。民主的手続きを可能にする実質的な自由や平等、物質的な諸条件などが手元になければ、自己決定や参加はおぼつきません。ただ、これは鶏が先か卵が先かという問題に似て、そうした諸条件を実装するためにこそ、民主的手続き(ないし運動)の遂行が必要とされる面があります。挙げられている職場での意見表明の例のように、社会的権力の配置の中で個々人の権利をいかに保障するのかという問題は憲法学上の悩ましい問題ですが、これも結局は民主的手続きの中で権力を抑制する仕組みが設計されるように工夫するか、個々人が(可能ならば連帯し合いながら)自己決定を貫徹することで事態を打開していくしかないように思えます。


完全な自己決定を為すことなど不可能ですが、そうした現実の中で少しでも満足のいく自己決定ができるように利用可能な手段が民主政なのだと考えています。それは不完全ですけれども、よりましなものです。
2007/08/28(火) 17:32:43 | URL | きはむ #- [ 編集]


ありがとうございました。
お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。
出掛けていたのとパソコンの入れ替えでモタモタして、 気がつけば幾日も過ぎていました。Windows Vistaにした為に、これまで最もよく使っていたソフトが使用不能のようで(しかもVista対応のものもない!)、落胆この上もありません。


さて、ご丁寧なお話をして頂き、本当にありがとうございます。心より御礼を申し上げます。もともと何も知らない(知りようのない)私のこと、高いレベルでのお話は難しすぎます。
お話では、「多数決だけが民主主義ではない」「多数決以外の手段を併用することは何ら妨げられません」とのことですが、そうであれば多数決以外に考えられる民主主義の「なにか」とか「手段」とは、何でしょうか? そこのところを是非とも教えて頂きたく思います。実は、そうした「何か」を知りたいのも私の願いであり悩みでもあるわけです。


話の繰り返しになるかもしれませんが、もう一度私たちの職場や地域の実態を申しますれば(先にも若干申しましたが)、提起されたものに対してただ賛成か反対かが問われ、賛成なら何にも言われないけど、反対だと「なぜだ!」と問い詰められたりします。また、実力者やちょっと強面の人が提案したものはさっさと賛成多数で決まり、そうでない人の提案はだいたいが否決されます。


実例を挙げれば、「毎年総会をやって皆でわけの分からんことでワァワァやるよりも、自治会には評議員の皆さんがいるのだから、総会なんかやめて評議員会(三役と評議員で構成・公開されない)で決めたらどうだね? 皆さんも忙しい身だし・・」という話が、賛成多数で決定(-_-;)というわけです。お陰で、自治会のことは年度末に決算報告を兼ねた一枚の印刷物が配られるだけで、サッパリ分からなくなりました。いまでは、自治会どころか有力者任せの「闇の会」になってしまいました。 また、ほかのボランティアのグループでも、地域との関わり方をもう少し考えた方がいいというのに、目先の行動を優先する上の人の考えが皆に受け入れられて、ちょっと工夫した方がいいという意見を持った人は敬遠されて役員にもなれず・・。結局は、20年以上も経ってグループは縮小・分裂というわけです。


上記の事例は何も意見が対立する事情も基本的にはないわけで(とりわけボランティアのグループでは)、ただ上に立つ人が惰性で運営することに対して一部の人が感づいていたことが生かされなかっただけのことです。そして、それが地域やグループの人たちにとっても何の利益にもならないのに、その場の雰囲気で賛成多数(多数決)となっていったのです。何かあるごとに民主主義としての「多数決」を持ち出せるなどということは、封建時代には考えられなかったことであって、それはそれで人々の苦労と知恵の結集によって勝ち取られた進歩であるわけですが、その「多数決」がこんな風に扱われていることに(そこに私も巻き込まれているだけに)、言いようのないやるせなさを感じます。


「不参加も・・、他者に委ねるという選択も」一種の自己決定ということは、論理上では可能だとしても実態は自己決定(自己判断)を放棄していると言えるのではないでしょうか?これが労働組合の方針となると、一般組合員に対して明らかに自己決定の放棄が求められている(上部機関の決定を押しつけている)とさえ言えるやり方をとっているのですから(先日申し上げた通りです)、酷いものです。自己決定の放棄も消極的な自己決定であるという説明ができるとすれば、力と目的を持つ側とそれに押されて流されている側とのドロドロした関係の中において、力と目的を持つ側に有利に働く以外の何物でもありません。


先達の苦労と知恵によって生み出されてきた民主主義の制度も、地域・職場の日常の生活感覚の中にあっては単なる制度であって、そうした感覚が自分自身が加わるグループの運営においてさえも同様であり、「多数決」という折角の宝も持ち腐れになっています。結果は先にも述べましたように力のあるもの(或いはその立場にあるもの)に利用されているというのが現実です。そうした中で、多数決をより意味のあるものにするにはどうしたらよいのか? また、同じ目的を持っているグループでなら、多数決によらずとも話し合える努力があるのではないか? などと考えざるを得ません。


民主主義の理論的な定義は知りませんが、私の感覚からすれば、私たちの周囲の人々は民主主義を「多数決」と「選挙」、そして「少数意見の尊重」などと単純化していると思われてなりません。「多数決」は上からの押しつけと多数派工作、さらには民意の操作によって形成されていることが多いと言えます(民意の操作という点では、国鉄解体の前の”営業係数”がどれほど民意に影響を与えたか。低賃金で喘いでいる人までもが”人件費”を云々する現在の社会状況も然り。昨年の自治体大型合併で市役所が宣伝した”財政力指数<国鉄時代の営業係数に似ている>”も然り。公務員削減=税金節約論も然り)。また、「多数決」のもとでは原案が無修正で通っている場合が殆どであるというのも事実で、原案をより充実させるという感覚が「上」の人たちにないとさえ言えます。これも民主主義という感覚からすればおかしいと思います。「三人寄れば文殊の知恵」などと言いますが、そうした人々の知恵を取り上げずに多数決によって決定に持ち込むというのはいかがなものかと思わざるを得ません。
「選挙」選挙制度の操作に加え多数派工作と利益誘導(差別も含む)があり、「少数意見の尊重」なんてことは実際には尊重されたためしもありません(命の迫害がなくなったことだけは進歩したが、少数意見者であるために、地域でも企業でも労働組合でも団体でも差別がまかり通っています)。少数意見の尊重どころか、「多数決」によって異端者をあぶり出してしまっていると言えるのが、現実の我々の生活です。


「多数決」が、純粋な理論として肯定できるとするのであれば、それはあくまでも「純粋な」世界のことのように感じられてなりません。しかし現実は、上記事例のように上に立つ人々によっても、多数決によって利益を得ることの少ない人々によっても「多数決」が単純化されて、その運用がきわめて粗雑になっていることを見れば、その理論としての多数決の有効性を肯定することに大いなる疑問を感じざるを得ません。もちろん、「その他の手段」も可能とのことですので、そこのところをより深くご指導いただけたらと思います。私も多数決を否定しませんしそれが運用されることもあると思いますが、できることなら当初案の無修正成立を条件としないで事前討議を充実させ、全体に発言を求めてなるべく多くの意見を当初案に取り入れること、できる限り多数決を避けること(小さい組織では努力すれば可能です)などの努力が必要なように思います。
私にとって民主主義の問題は、地域やグループの皆さんがそのような討議に参加できる(主体的な意見を持って発言できる)ようにするにはどうしたらよいのかということです。そうした私の悩みは「民主主義」の「外」にあるのか、それとも「内」にあるのかということも、今回の新しい問題として感じました。
現実をご理解いただきたいために同じようなことを繰り返し書いてしまいましたが、一層のご指導をお願いいたします。
2007/09/02(日) 10:24:28 | URL | ふじの #- [ 編集]


詳細なコメント、ありがとうございます。私よりも民主主義の現実により長く・日常的に触れておられるふじのさんに私が「指導」することなどできませんが、可能な範囲でお答え致します(なお、http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070829/p1も併読して頂ければ幸いです)。


まず、自発的に自己決定を放棄している(消極的な自己決定をしている)のか、権力関係によって自己決定を放棄させられているのか(ほとんど自己決定をしているとは言えない―でも、もの凄く消極的だけどしていると言えるかもしれない)、という区別を設けることができます。両者は現実には相対的で見分けづらいことが多いとしても、ひとまず区別しておくべきです。なぜなら、私のように、積極的に参加したくない人が決定から退出する自由を残しておくことが重要だと考える立場からすれば、問題視すべきでないケース(自発的な決定放棄)と問題視すべきケース(決定放棄の強制)を区別しておくべきだと思えるからです。


その上で、決定放棄の強制が為されている場合には、権力関係の不均衡によって、いわば政治的平等という多数決の前提が揺らいでいると見做せるわけですが、では、そこで有力者や上部機関の人々が自己決定の放棄を迫れる程の「権力」を有しているのは何故なのでしょうか。専門性とか経済的資源など(強面の意見が通るのなら暴力も?)、様々な要素が絡み合ってはいるでしょうが、単純化してしまえば組織における相対多数からの消極的支持が存在するという事実が中心なのではないでしょうか。もちろん予め権力が存在するから多数の消極的支持を取り付けることが可能な面もあるでしょうが、お話の内容から推測する限りでも、決定が有力者任せになったり組合で意見表明の機会を奪われたりすることに大きな不満を持つ人々は相対的には少数派なのでしょうね(あるいは多数ではあっても組織的に何らかの行動を起こすまでには至っていないか)。すると少なくとも形式的には、これが民主主義の「外」に位置するような問題だと考えるのは難しくて、やはり基本的には運用の問題だと考えるべきでしょう。


敢えて多少突き放した言い方に換えれば、ふじのさんのお悩みは所詮民主主義的手続きの枠組み内における権力闘争(多数派工作)に敗北している者の負け惜しみに過ぎないのではないか、と見る立場もあり得ます。もっとも、そうした醒めているだけの見方を採っても生産的ではないので、私は与しないことにしますが、こうした見方が一面の真実を突いていることは否定できないと思います。


その上で、多数決以外の採り得る方法を示せとの課題、ですね。まず、既にふじのさんが示唆されておられる方法から述べますと、それほど大規模でない組織内部においては、①よほどの例外以外は全員一致による決定が必要とされるように規則を改定する、という方法が実現可能でしょう。ただし、全員一致方式では合意を求めるために圧力がかけられる可能性が一層高くなることが指摘されていますから、権力の不均衡が顕著な組織ほど却って逆効果かもしれません。②必ず原案の修正を求めるとか構成員全てに発言を求めるなどの方法も一案かもしれませんが、些細な修正で済むなら実効性がありませんし、決定の度に全員の意見を聞くというのも非効率で無駄だと却って敬遠されそうですよね。参加そのものを目的としない限り、現実にはなかなか受け入れられ難い要求だと思います。


むしろ全員一致とは逆向きの案としては、③秘密投票方式を採るというのはどうでしょう。討議における主体的な発言の促進には役立たないかもしれませんが、権力の拘束からは逃れやすくなることが予想されます。もっとも、討議における意見表明やそれ以前の根回しなどで有力者の示威や締め付けが強く行われた場合には、それほど効果を現わさないかもしれません(誰が反対したかは分からなくても全体で否決されれば有力者の制裁があるかもしれませんし、そもそも選挙管理を誰がするのかという問題も)。


あと、全員一致まで行かなくても、④3分の2などの特別多数を得ないと決定できないという規則にするという方法もあり得ますかね。圧力が強まる可能性は全員一致方式よりは小さいと思われます。ただ、これは日常的にはあまり馴染みが無い方法なので、全ての決定について採用するのは実現が難しいかもしれませんが。


もっと馴染みが無い方法としては、⑤一人一票という原則を止め、争点に対する選好や利害関係の強度によって一人が持つ票数を変動させる、というものがあります。どうしてもという強い意見を持っている人に多くの票を、無関心でどうでもよいと思っている人には少ない票を与える、ということです。国際機関などでは拠出金の差額に応じて各国の票数が決まるところがありますから、それほど突飛な方法ではありません。ただし制度は複雑になるので、やはり実現可能性が低そうです。また、どうでもいいと思っている人々に「その場の雰囲気」で決められるよりはいいと思いますが、皆が「主体的な意見を持って発言できる」ことを望むふじのさんにお薦めする方法ではないのかもしれません。


⑤の変形として、⑥争点に対する強い選好や利害関係を持っている人々の内の一定数の同意を得なければ決定できないものとする、という方法もあり得ます。つまり、どうしてもという強い意見を持っている人に拒否権を与えるということです。⑤よりはあり得そうな気がしますが(あるいは暗黙の内に行われている場合がありそうですが)、手続きとしては誰に拒否権を認めるべきかという一手間がやはり面倒だとなるかもしれません。


とりあえず今私が思いついた方法はこの程度ですが、どのようにお考えになったでしょうか。ふじのさんのお悩みは比較的普遍的なものなので、民主主義論を一層探求されれば、様々な考え方や制度構想が見つかると思います。ただ、決定方式や制度を(正式にせよ事実上にせよ)変える場合にも多数派を形成する必要があることが多いですから、結局は多数派工作・権力闘争は避けられないのではないかな、という感はあります。私が言うべきではないのかもしれませんが、現実を前にして理論にできることなどたかが知れていますから、あまり期待しすぎず、現実は現実として生きて/闘っていくしかありません。
2007/09/02(日) 22:10:26 | URL | きはむ #- [ 編集]


お礼と若干の意見を
早速のご指導をありがとうございました。
その中でいくつかのご提案もしていただきましたし、きはむさんの別の論文も紹介してくださいました。何も知らないままに現実をただぶつけている私にとりましてはいずれも大変ありがたく、丁寧に読ませていただきました。参考にさせていただきたいと思います。


今回のお話の中で以下の部分は大変参考になりました。
まずは、「単純化してしまえば組織における相対多数からの消極的支持が存在するという事実が中心なのではないでしょうか。」とのお話です。何事かが提起されている中での人々の曖昧な態度、「上」の人への追従、また「あきらめ」と言った状況が、消極的支持や自己の判断を避けて問題への対処そのものを丸投げしてしまっているという行為に結びつき、本来の意味での多数決の意義を薄め変質させてしまっていると言えます。これがものごとの決定に当たっての日常的な姿であると言える状況です。このような人々の姿勢と行動を放置していては、結果として人々の社会生活もいらざる回り道を強いられることになると考えるのです。
より大きな組織体にあっては、大なり小なり権力と言えるような力関係が存在していると言えましょう。その点では、「もちろん予め権力が存在するから多数の消極的支持を取り付けることが可能な面もあるでしょうが、」とのご指摘はその通りだと思います。全国的な組織とかより行動的な組織・ある権威のある組織にあっては、権力とも言える力関係がより明確に意識されますね。そうした権力に対して消極的な支持や自己決定の放棄という行動はかなり広く浸透していると言えるのではないでしょうか。


しかし、「消極的支持(問題への対処そのものの丸投げも含む)」がなぜ生じるのかということにも目を向けなければなりません。より深く考えれば教育とか文化の問題もありましょうが、それはさておきます。より身近な問題としては、現場からの提案が極度に減少し、提案内容自体が「上」からのものになって遠く感じられている中で、提案→討議→採決の過程が形式化され、且つ、簡素化されていることとか、そして何よりも「討議」そのものが軽視され形式化されていることに順応してしまっているという状況があることを指摘しなければなりません。比較的討議がよく行われる組織でも、その実態は「賛成」の立場からのものや単純な質問が圧倒的であって、提案内容を充実させる立場からのものは非常に少なく、それらを討議もせずに一つの意見として採決にかけるやり方が日常化していると言えます。
より大きな組織のもとでは「上」からの提案と説明はより一方的で、発言の内容と機会までもが統制されているのが殆ど常識となっていることは、ご存知のことと思います。社会生活におけるこのような体験の繰り返しは多くの人々の参加意識を弱めさ、「消極的支持」や「問題への対処そのものの丸投げ」、「順応」や「あきらめ」などを常態化させる方向に作用していると言ってもいいでしょう。


このような中にあっては、それらの中の「丸投げ」や「順応」が積極的な自己決定に捉えられ、「あきらめ」などが消極的な自己決定に分類されたとしても、「他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利」の行使としての自己決定とはほど遠いものであることには変わりはありません。むしろ、そうした自己決定の結果が、問題解決に役立たないばかりか問題を助長し、却って彼ら自身の上に降りかかってきていることはどこにでもある現象ではないでしょうか? 元気のある人がその殻を破る例もありますが、その彼らも他方で同じことをやっているというのが現実です。


私が問題にし、悩んでいることは、こうした状況をどうやって打破するかということです。民主主義のルールの単純化が、組織にとっても、「上」に立つ人にとっても、一般構成員にとっても、利益にならないという状況をどう打破するかということです。そのさい、改めて別の制度を以て対応するのは、その制度の単純化やさらには悪用の危険もありますので、そうしたことは可能な限り避けたいのです。要は文字通りの意味での「自己決定」がお互いにできて、また、それについてお互いに意見を述べあえるようにしていくにはどうしたらよいのかということです。
このことが置き去りにされている中で「少数は多数に従う」「多数決」という原則がまかり通っていることに疑問を感じるわけです。多数決そのものも運用次第では大きな問題を含んでいるとの認識が、私自身が最近痛感しているのです。


ところで、
「敢えて多少突き放した言い方に換えれば、ふじのさんのお悩みは所詮民主主義的手続きの枠組み内における権力闘争(多数派工作)に敗北している者の負け惜しみに過ぎないのではないか、と見る立場もあり得ます。もっとも、そうした醒めているだけの見方を採っても生産的ではないので、私は与しないことにしますが、こうした見方が一面の真実を突いていることは否定できないと思います。」 とのご議論には少々驚きました。
私自身には権力闘争など全く無縁です。確かに「これではいけないな〜」と思った事例はたくさんありますけど・・。私が民主主義とか「多数決」の現実にこだわる事情は、それがかなり形骸化されている現実からは将来への展望が開かないと思うようになったからです。社会にとっても、企業にとっても、労組や農協などのような諸組織にとっても、そして個人にとっても長い目で見た利益に結びつかないと思うのです。


話は戻って、権力闘争の結果としての「多数決」によって敗者が生まれるというのは、本当に意外なお言葉でした。まさに単純に理解された「多数決」ではないでしょうか? 民主主義の詳しい定義など私には分かりませんが、民主主義に何らかの期待を寄せる者として非常に失望せざるを得ません。力による支配から多数者の意志によって社会をコントロールするところに「多数決」のもう一つの役割もあろうかと思いますが、その「多数決」によって”敗者”を(この場合殆どが弱い側・少数者に)生み出すことは、「数による力の支配」を意味することにならざるを得ません。実際、今の社会に定着している「多数決」の現実は、勝者と敗者を生み出すものになっていると言っていいでしょう(それ故に「多数決」のあり方を案ずるのです)。そうした現実の多数決が、「民主主義思想としての多数決を良しとする」民主主義の考え方とは相容れないものではないかと考えるのです。そしてまた、私自身が結果としてであれ勝者・敗者を分けてしまうような多数決で良しとするなら、なんの悩みも生じませんよ。


「敗北している者の負け惜しみ」という観点からは、「民主主義としての『多数決』」の中の「民主主義」が抜けてしまっていないでしょうか? 多数決にも一面の危険性(主として力ある者による一面的運用)があり得ることは認めなければなりませんし、そうさせない努力が必要だと思います。上にも申しましたように、現場からのテーマ・議題の発議自体が非常に難しくなっている今(たとえば大組織の場合、現場からの発議権自体が事実上封殺されてしまっているばあいの多いことをご存知でしょうか)、よほどの説明と討論を保証しない限りは、「多数決」の結果は最初から見えているというのが現実です。ですから、「上」から提起されたことの討議を如何に充実させるかがむしろ重要になってきています。その手順を重視せず、「多数決」によって力あるものの提案に沿った決定が次々となされて、他方に「敗者」を生み出していくことを傍観してはならないと思います。私自身においても、過去において立場を変えれば「力あるもの」の立場にたち得たこともありましたが、早い段階での多数決の実施によって「敗者」を作り出すこと避けたものです。
余計なことまで申しますれば、多数決における「勝者」が真の意味での勝者であるかは、数年から十年ほどの長い時間で現実生活を見てみれば、案外そうではない場合が多いのではないでしょうか。


それから、言葉尻にこだわるようで申し上げにくいのですが「些細な修正では実効性が」ないとか、「全員の意見を聞くというのも非効率で無駄だと却って敬遠されそう」とのお話についてひと言。
私は「些細な修正」をやってほしいと思います。その結果を実行した時の違いがたとえ少なくても、発言者の「多数決」への参加意識も高まると思いますので、民主主義を育てるという意味では重要な意味があると思います。
「全員の意見を聞くことの非効率」についても、意見を聞き発言を求めていく過程でそういうことを言う人が必ずいるだろうとは思います。しかし、民主主義は効率で計れるものではないのでは?と思います。効率を云々することによって不利益を得るのは、本来は主人公たるべき一般の人々ではないでしょうか? 私自身も十数年前にちょっと小難しいグループの規約を成立させたことがありますが、8ヶ月か9ヶ月ほども掛けました。説明と討論を繰り返し、部分の変更をして全員一致で成立したのです。効率的を求めるよりも参加者のより多い納得を得ることこそ大切なのではないでしょうか(今は一個人として民主主義の問題に関心を持っていますけど)。


民主主義としての「多数決」なのか、単なる「多数決」なのか。多くの意見を反映した上での「多数決」か、提案したものを通すための「多数決」なのかは、同じ多数決でも性格が違うと思います。どちらの場合も後者の多数決が続くことは、民主主義的な立場から見て問題があると思わざるを得ません。また、多数決の考え方が明快・明確であったとしても、多数決が社会的なものである以上、それが完全に中立でどんな場合でも公正であるとは言い切れません。その中で「多数決」がより中立で公正であろうとする為には、参加者に対しての十分な情報提供と討論の保証、発言者に対する差別のないこと、当初案への意見や工夫の反映等々、まさに多数の意志がより多く反映される条件が満たされなければならないのでは?と思うのです。
多数決が幅広く採用されている今日、「民主主義としての多数決」を単なる道具にさせないことが求められていると思います。難しい理論に頼らず、「現実は現実として生きて/闘っていくしか」ない面もあるのですが、理論と教訓面からのサポートがあれば大いに助かるものです。その意味で、「民主的な多数決」のあり方についての真剣な追求があっても良いのではないでしょうか。
またまた、長い書き込みになってしまいました。お許しいただきますとともに、一層のご指導をお願いします。
2007/09/06(木) 18:35:51 | URL | ふじの #- [ 編集]


丁寧なご返答ありがとうございます。


まず私の議論を確認しておきますと、多数決における「敗者」(自らが支持・納得できる決定を為せなかった者)に対しても当該決定を正当化可能であると考えるのが民主主義理念であると定義しておりますので、勝敗が出て来ることは民主主義そのものとは矛盾しないと考えています(むしろ民主主義には勝敗の観念が無く、決定は常に一枚岩であるという観念が持ち出される方が危ういだろうとも思います)。民主主義理念の内部で、所与の条件を改善しようとせずに多数決を急ぐのか、多数決を用いるにしてもより豊かな決定内容となるように工夫するのか、という分岐が有り得ることは、どこかに書いた通りです。また、ふじのさんが主観的に権力闘争をしているつもりが無くとも、政治そのものが権力闘争でしか在り得ませんから、そこから無縁でいることはできません(政治とは強制無きコミュニケーションであるという立場に私は与しません)。それから、理念としての民主主義はともかく、決定手続きとしての民主政にある程度の効率性への配慮は欠かせないと思います。さらに言えば、大して関心も無く他の人と同じ立場だと言って済ませたいのに、強いて発言を求められることに権力/暴力的な作用を感じる人もいるでしょう。そうした参加の強制/要請をどう評価すべきかについて、あるいは民主政における各主体の義務/責任について、私とふじのさんの立場は若干異なりそうです。


さて、ふじのさんのお立場は概ね理解できるものですが、私は引き出しの少ない人間なので、私がこれまで書いてきたことと重複にならずに述べられることはあまり無さそうです。あとは私などよりももっとしっかりとした理論的著作に当たられた方がよいかもしれません。参加意識を高めることを重視したり、主体的な参加そのものに価値を見出したりするようなご見解からすれば、参加民主主義の理論的立場に近いという印象を受けます。この立場を代表ものとして、キャロル・ペイトマン『参加と民主主義理論』やC.B.マクファーソン『民主主義理論』(あるいは『自由民主主義は生き残れるか』)があります。あるいは、討議を充実させるという視点から、より新しい討議民主主義の理論的潮流があります。日本語で本にまとまっているものはほとんどありませんが、篠原一『市民の政治学』で紹介されています。こうした理論がどこまで日常的現実の諸問題を支援できるのかは現在進行形で試されている面があるでしょうが、ひとまず当たられて見ては如何かと思います(他の本はhttp://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-358.htmlで紹介しています)。
2007/09/09(日) 16:51:26 | URL | きはむ #- [ 編集]


お世話になりましたm(_ _)m
いろいろありがとうございました。
当初はちょっとお話をお伺いしようと思って書き込みをさせていただきましたが、「多数決」に関してのよりつっこんだお話を、またいつの日かお聞きできればと思います。


きはむさんの民主主義に関する深い御議論には教えられることは多々ありますし、民主主義を多数決と同一視されておられるわけでもなく、自己決定権をできるだけ多く実現するために有用な手段が多数決以外に存在するのであれば、「多数決と併用することは何ら排除されるべきではないし、それが多数決のみを用いるよりも一層多くの自己決定権が実現される蓋然性をもたらす手段であれば、その採用はむしろ要請すらされる。」こと、「多数決を正当化可能であるということは、民主主義理念一般が共有する最低限の条件にすぎ」ないとのお話も重々承知しているものです。


ただ、それにもかかわらず、討論を重視していない人々も民主主義に反対しているわけではなく、”議論を尽くすという過程をそんなに重視していないというに過ぎない”とされて、そうした人々の行為を認めておられます。そして、「自己決定権をできるだけ多く実現する上で最も基本的な手段は多数決である」とされ、それが「正当化できるという信念が価値理念としての民主主義の核心」であるとしておられます。その当否は別としてお話の筋はよく分かりますが、「多数決さえやっておれば民主的なんだ」という現場の実感からしますと、「エッ??」という印象を禁じ得ません。


地域の人々や小さな団体・グループの人たち(もちろん他の団体の人たち)を見くびった見方をするわけではありませんが、人々の民主主義の意識レベルの低さに辟易とせざるを得ない状況があります(もちろん、このような状況を人々の責任に求めるわけにもいきません。発議する機会も場もなく、発言する機会も制約され、安易な多数決が乱発され、他方で”これが正しい”と言わんばかりの押しつけがまかり通っている今日の社会状況が、人々をして民主主義の理解に進ませなかったと思います)。そうした現実に対しての不満を吐露してみえる方もおられます。


私の身近な団体(共通の目標で集まっている団体)の方針案も、小学低学年の子が書いたかと思われるような文章(この私の文面も酷いものですが、そんなものでありません。そもそも”文”になっていないし、句読点もメチャメチャ)で綴られた提案も、それこそ、きはむさんがおっしゃるような「一枚岩」のような全員一致の多数決で採択されていくのですよ。事情が何であれ、「多数決」への日常のなれの果てとも言える状況を生み出してしまっている事例だと思いますね。


このようなことは、程度の差こそあれ決して珍しいことではありません。意見を言っても採択されなかったり、多数決で敗者になるならまだいい方ですよ! 議論にならない。議論が出来ない。議論に耐えられる常識がない。そして、議論をしようという考え方と態勢が欠けている!のです。なぜなら、手っ取り早い「多数決」がそこにあるからですよ。こんなことを言いますと本当に人々を馬鹿にしているようですが、これが地域のあちこちにあるグループや団体の現実です。


どんなに民主主義を言う人でも「結局は多数決を行う」ということで、多数決それ自体を結果的には単体として正当化してしまう議論を行いますと、結局は「多数決」にのみ目がいき、多数決が最低の条件ではなくなり、『「多数決」をしたから民主的だ』という逆転した発想となって、それが人々の社会生活の常識となって一人歩きしてしまっているのが現実です。現状はまさにそうなっています。


きはむさんは「決定は常に一枚岩であるという観念が持ち出される方が危うい」と仰ってみえますが、現実がまさにその通りになっていることをご存知ないのでしょうか? 私たちの暮らしに近い団体やグループを見ますと、その「危うい」と言われる一枚岩の決定こそが、人々の消極的な姿勢や諦めの姿勢の上に、活動目標の違いや政治・思想の左右を問わず「日常化している」のですよ! こうした現実は、思想の死滅・多数決の凶器化・人権の破壊とさえ言いたいほどです。「決定は常に一枚岩」という現実がまかり通っている巷を、一度は歩いて調べてみられたらいかがですか? 「仏作って魂入れず」のことわざ通り、日本の民主主義の実態はそのようなものなのです。


私が申し上げているのは、こうした現実をどうしたらよいかと言うことです。十分な討論を起こし、全体の理解を深めた上での一枚岩の決定すべきだとして求めているわけではありません(小さな組織では多数決を急いで”敗者”を作って仲間割れするよりも、なるべくなら全員一致を探求した方が、よりいいと思いますけどね)。提案者には誠実な説明の出来る提案が出来ること、提案を受けた側にはその提案をまじめに考えて改善すべきところがあれば提案する力量を持ってほしいのです。そして、お互いが討論できる関係を築いて欲しいと思うのです。すべての人がそんな資質を持てればいいのですが、それは無理です。せめて10人中に3人ほどでもそんな力を持っている人がおればと願わざるを得ないのですよ。


多くの人々が身近な組織・団体で討論することに慣れてもらえるなら、民主主義の内実も「多数決」の意義もより深まっていくでしょう。そうなれば、権力を伴う討議の場面(国会や地方議会、対中央交渉・労組内の諸討議ほか)でも、その討論と多数決の内容やあり方についてより自主的な判断を持ちうるようになるのではないでしょうか?


社会科学を論ずるのであれば、古典や研究室・研究者の間だけの範囲でものを語らず、社会の現場・社会の底辺を歩いてみてください。本当に「多数決」の実態をつぶさに調べ上げてみてくださいね。討論民主主義とか参加民主主義ほかの民主主義の諸側面を研究し実践に移していくことも重要ですが、逃げ場としての「多数決」があっては結局はそこに持ち込まれてしまうと思います(現実はそうなっています!)。ですから、「多数決」そのものについても、実態に基づいた研究をしてみていただきたいと思います。
上にも申しましたように、「多数決さえやっておればそれで民主的だ」という、民主主義と多数決への安易で単純・姑息な理解が広まっている中で、まじめな意味で苦悩している人々がいること、 また、自ら賛成した(一部の人を”敗者”にしてまでも決定した)事柄によって、自らのその後の活動が低迷したり・没落したりしている団体が少なくないことも重大なことです。 こうした現実を知ることこそが、社会科学を論ずるベースとして位置づけられなければならないと思っています。


ともあれ、きはむさんのこれまでのおつきあいに感謝申し上げるとともに、お示しいただいた書籍についても読んでみたいと思っています。ただ、学歴も経歴も現社会の最低に位置する私にとって、非常に難しいものだとは思いますけど・・。
いろいろお世話になりました。それではこれにて・・。有り難うございました。
2007/09/12(水) 11:31:25 | URL | ふじの #- [ 編集]


ふじのさんには、これまで重要なご指摘の数々を頂いたと思い、大変感謝しております。主観的には、現実を見ていないのではなく現実に対する認識・解釈の相違があるのだと理解しておりますが、少なくとも現時点では学問研究の場に身を置いている立場の者として、「現実を見ていないのではないか」というご批判は素直に受け止めさせて頂きます。


その上で二、三のお答えをさせて頂きます。現実に「一枚岩」的装いの下に多数者支配が横行しているとすれば、現実の政治的対立(勝敗)を強調することは、そうした偽装を暴くためにも必須であると思います。また、「多数決への逃げ込み」という現実があるからこそ、「なぜ多数決が正当化可能なのか」という反省的な問い直しを促すことが重要なのであると考えています。そして私の議論からすれば、民主主義理念の下において、多数決は自己決定権の最大化を可能にする蓋然性ゆえに支持されるのですから、この正当化根拠に遡って思考してもらうことによって、安易な「多数決への逃げ込み」を戒めることも(論理的には)可能になるはずです。理論が現実を支援可能であるとすれば、こうした手法によるのだろうと私は理解しています。


逆に言えば、これ以上のこと、現実を一遍に変えてしまうようなことは理論にはできません。理論は現実を反省し、現実に批判的ですが、どこまで行っても現実に規定されます。したがって、現実から遠く離れたことを理論が語ることはできませんし、語るべきでもありません。理論の助けを得ることは重要ですが、現実の何かを変えたいと思うのならば、最終的には理論の外に生きている自己が用い得る範囲の手段に頼るしかありません。ふじのさんにせよ、私にせよ、現実に生きている者には、それ以上のことは何もできません。達観でも諦観でもなく、ただ為し得る範囲のことをやっていくしかないのだと思っています。
2007/09/12(水) 19:57:02 | URL | きはむ #- [ 編集]

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[世相その他]民主主義とは多数決にすぎない http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20070714/1184390579


民主主義について http://d.hatena.ne.jp/vox_populi/20060101/p1


民主主義とは何か http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070829/p1