後藤さんの宮台批判について


これも書き付け程度に。断片的な言葉をめぐって誰かと応酬するのは嫌なので、この件については考えがまとまるまで一切書かないのが賢明だと思っていたのだが、考えをまとめるために時間を確保する見込みが当分無いし、誰だか知らないが何となしに催促されている気がするので、後日のための目印のつもりでエントリを立てることにした*1


俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎宮台真司
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2007/08/85_1c26.html


宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2008/01/post_fe9b.html


『現代の理論』掲載の論文は未読なので*2、ブログに限ってのことになるが、これでは「批判」になっているとは言えないだろう。本当にそこで言う意味での「批判」をするつもりなのなら、そもそも「さらば」とか「葬送」などといった言葉を用いるべきではない。ヴェーバー的に言えば、それはいかにも政治的な身振りであって、科学的な「批判」には程遠い。政治的な次元での「批判」も有り得るとは思うが、ここでは単に実証が乏しいと言っているのが大半であり、イデオロギー分析をしているわけではないので、そうした意味での「批判」にもなっていない。皮肉は空振りに見える。


後藤さんは宮台のみならず東浩紀鈴木謙介なども含めた現代日本社会学的知の一潮流全体に対して批判的な眼差しを持っているようであり、それはそれで大変結構なのだが、それならばもう少し射程を広げて、(理論)社会学の歴史そのものを相手にするような構えを持って欲しい。実証的根拠の薄弱さを突くことは非常に有力な批判手法だけれども、ある意味ではとても安易な済ませ方であり、その方法だけで「隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営み」としての「批判」を遂行することは難しいように思える。


宮台のような堅気とは言えない研究者でも、そのベースにはそれなりに連綿と積み重ねられてきた学問の伝統が敷かれているのだから、宮台にせよポスト宮台の研究者にせよ、何で社会学的な知の中からこういった見方・考え方が出て来るのかという「文脈」や「前提」のところまで遡って問題にしなければ、本当の意味で「脱社会化」仮説を「批判」したことにはならない。と、私は思うのだけれども、こう言っただけでは以前と同じようなすれ違いを再現するだけなのだろうな*3。私は純粋に、後藤さんのように得難い立場を得ている人間がこのような水準の批判で満足しているとしたら、それは勿体の無いことだと思うのだが。何か歯痒い、気がする。


俗流若者論」批判は切れすぎる刀か
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070626/1182863059


幾つかの局地戦と「大局」
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071009/p1

*1:言い訳が長いなぁ。

*2:それにしてもなぜ『現代の理論』などというコアな媒体に。この媒体に宮台批判が掲載されることからどういう意味が生じるのだろうか。

*3:なお、以前に「いつかじっくりと読みたい」と述べた文章は、その後にじっくりと読んでみた結果、採り上げるにも値しないように思えたので、今まで採り上げていない。今後も採り上げるつもりは無い。