Egoist Manifest


時々思う。世界の全てに優しくしたい/ 私にとって必要なヒトやモノ以外は全て消え去ってしまえばいい。矛盾するような二つの思いが、同じ瞬間に顔を出す。脳内に畳み込まれている異なる想念が、交互に顔を出すのではない。穏やかな心向きによる世界の肯定と、他者に向けられた猛々しい暴力への衝動とが、全く同じ刹那に、自己を顕示するのだ。

世界の肯定とは、私に必要な限りでの世界を肯定するということでは、決してない。今・在る全てを、在るもの自体として肯定したい。それはそれだけで価値を持っている。私はその全てを尊び・重んじたい。

けれども、それらのほとんどは、ごみくず程度の価値しか持たない存在である。私は、それらが滅んでも何も変わらない。むしろ、消え去ってくれた方がありがたい。そんなヒトやモノは、傷付け・破壊し尽くしてしまいたい。否、破壊し尽くしてしまうべきなのだ。


この世界には、否定したくなるような光景が満ち溢れている。同時に、言いようもなく素敵なもの・美しいもの・素晴らしいものも、確かに在る。 一方では、目を覆いたくなるような偏狭さ・冷酷さ・残虐さ・凶悪さが、時に明白、時に隠然と姿を見せる。他方、輝きや温もりや柔らかさを伴った幸福が、絶え間なく息づいてもいる。

世界には、クソッタレな現実と「隣り合わせに」ささやかな幸福が在る――のではない。温かな優しさの「裏側に」昏い暴力性が潜んでいる――のでもない。そのような表現は、それぞれの事象が本来的には世界の中で独立の位置を占めているはずだという、誤った想定に拠っている。そうではない。ここで否定すべきものと肯定すべきものとは、隣接しているのでも密着しているのでもなく、終始一体なのである。

一つは、クソッタレな現実の「ゆえにこそ」優しい幸福が生まれるということ。二つは、優しい幸福の「ためにこそ」クソッタレな現実が生み出されるということ。三つには、クソッタレな現実「そのものが」優しい幸福として在るということ。つまり両者は、「同じものの異なる側面」とか「表裏の関係」などと言うよりも、もっと渾然とした形で混ざり合っている。


例えば、何か/誰かを笑う。腹がよじれる。可笑しいと思う。その笑いが共有される「場」には、共同性が生まれる。笑いの前提/帰結としての共同性とは、何が正常/普通であるかの想定の共有である。本来的な位置からの逸脱についての認識の共有である。だから、私たちが笑う時、こちら側とあちら側が分けられる。笑う側と笑われる側が分けられる(笑われることと笑わせることは、人が思う程簡単には分けられない)。それは暴力である。幸福を象徴する「笑い」なる現象は、最初からずっと、暴力的である。

あるいは、誰かを愛する。抱き締めたい衝動に駆られる。その人が幸せであれば嬉しい、と思う。その想念は、自分の外の世界に「愛するもの」と「そうでないもの」の分断を持ち込む、差別感情にほかならない。誰かを愛するがゆえに他の誰かを傷つけたり排したりするより前に、誰かを愛し他の誰かを愛さないとの恣意的でしか在り得ない選択そのものが、そっくりそのまま、暴力的なのである。

人が言うように、対立する者同士でも、互いに誰かを愛する気持ちを持つならば「わかりあえる」、のだろうか。そんなことは在り得ない。あるいは互いに「解り合えた」としても、対立を解くことはできない。「解り合えた」当の「誰かを愛する気持ち」こそが、対立の理由なのだから。愛は人を引き裂く。愛は人を殺す。愛は世界を灼き尽くす。


分断=対立=政治=暴力などは、クソッタレだ。だが、私たちはクソッタレな世界から抜け出すパスポートなど持っていない。それが私たちの世界であり、私たちの幸福の条件だ。ただし、だからといって、絶望したり悲観したりする必要など無い。私たちは誰か/何かを傷付けなければ幸せになれない。でも、誰か/何かを傷付ければ幸せになり得る。幸せになりたいなら、誰か/何かを傷付ければいい。否、むしろ傷付けるべきだ。幸せを望む者は誰でも、無条件の幸福へのパスポートを用意してくれる超越的な誰か/何か――例えば神・あるいは正義――に期待するよりも、ただ自分が愛し・欲しようとする対象と、撃ち・棄て・消し潰そうとする対象とを明確に認識し、その意志を実現しようとする努力を尽くすべきなのである。

目の前に広がっている現実と遠く隔絶した高みに拠る視線を拒むことは、このクソッタレな現実=今・此処に在る生活そのものをそのまま受け止め、自ら抱え込むことへの強い確信から来ているはずである。それは、自らの小さな幸福を守るために善良な隣人の生命を奪うことさえ為し得る私たちのエゴと、そこから構成される共同性が発現せずにはいられない暴力を、決して手放すまいと覚悟することに直接結び付いている。エゴイストとして言おう。人を殺してでも生きる覚悟が無い奴は、死ねばいい。


「エゴイズムegoism」とは、利己主義を意味する。それは、何の留保も無い通俗的な利己主義である。では、エゴイズムとは単なる個体の行為態度に過ぎず、社会一般の事象について語ることはできないのであろうか。答えは否だ。エゴイズムは社会について語ることができる。その立場は、ヒト種に限られないあまねく「個」――利するべき「己」――を主体として想定する政治理論として、一般的な主張を為し得るのである。それは、徹頭徹尾「個」のためにある理論であり、その認識と分析と方策はあらゆる個体によって採用され得る。社会の仕組みを云々する場合にも、「個」にとっての意味を最初に置く。したがって、エゴイズムからすれば、社会の帰趨そのものは重要でない。仮に「個」に最大限の可能性を付与することによって当該社会が内破される結果がもたらされるとしても、理論的な失敗や欠陥とは見做されない。社会など、壊れてもよいのだ。

エゴイズムにとって、つまり「個」にとってベストなのは、「私」が誰/何であり・どの位置に居ても、その/この/あの社会から目的の対象を獲得することができるようになることである。全体主義にせよ民主主義にせよ、常に誰か/何かが排除されることには変わりない。そして、その事実は排除される側にとっては致命的である。「私」がある社会にとって、外部者――「未だ見ぬ他者」――として現われる可能性は、常に存在する。だから、さしあたり「私」が帰属しているこの社会について、誰/何に対しても開かれ得る可能性を全方位的に確保しておくことは、(誰/何によっても利用し得る)エゴイズム理論にとって必須の課題なのである。


無論、日本社会の中でそれなりの権利や地位を所有している私個人としては、適度に社会が閉じている方が好都合である。実際に社会が壊れたら困るのも確かだろう。だが、それは可能性を一度開いてから、私自身が考えればよい問題である。開放可能性は閉鎖可能性でもある。エゴイズムの立場から境界線の再審可能性の引き上げを主張する時、再審の方向性や結果を問うことはない。再審によって境界線が更に内側に引き寄せられる――排除が拡大する――ことも有り得る帰結として否定されない。

可能性はあくまでも可能性である。可能性をいかなる現実に結び付けることができるかは、意志と行為の力に拠る。しかし、そもそも可能性が閉ざされているところでは、期待できるものは少ない。それゆえ、まず可能性を開かねばならない。それはあらゆる「個」に適用できるエゴイズム理論としての、一般的な主張である。ただし、そこから先は知らない。そこから先は、個別のエゴイストの政治的営為が問題となるべきである。それは、私とあなたのエゴが衝突するフェーズである。

理論としてのエゴイズムの唱道者たる私は、社会が内破する可能性を開く理論的帰結を、断固として支持する。しかし他方で、一人のエゴイストとしての私は、自らが帰属する社会を脅かす「外部者」に対する排除に、迷いなく加担する。前段の立場は他者と共有可能であり、一般の支持を求め得るが、後段の立場は私個人の利害だけに基づく選択であり、個別的な問題である。だから私は、後の問題については語らない。語れば語るほど不利になるだけだ。エゴイストであることを公言して回るなど、これほど愚かなこともない。なぜ語るのか。そんなことは知らない。語りたいから語るのだ。あなたの知ったことではない。それが私の欲望なのだ。あなたはただ、あなたの欲望に配慮すればよい。私は、私の幸運を祈る。