一般想像力批判


自分が小難しい類の本を読むようになってからの短い年月の中でも、最近とみに「想像力」なる言葉を使いたがる論者が増えた気がする。その意味するところには差異があっても、誰もが想像力の「減退」や「枯渇」(あるいは「古さ」)を憂い、想像力の「回復」や「喚起」(あるいは「刷新」)を掲げる点では変わらない。

それぞれの議論の質はピンからキリまで様々なので、同じ言葉がやたら使われているからそれが問題だと言うつもりはないが、それにしても「想像力」などというフワッとした響きがマジックワードのように溢れ返っている状況には参る。


そもそも人間固有の想像力はそんなに変わらない。昔の人が滅法凄かったわけでも、今の私たちがとんでもなく進歩しているわけでもない。質量諸々、誰だってほぼ同じだろう。人間の想像力を大きなところで左右するのは、自然だったり技術だったり政治だったり経済だったり、要するに環境や状況だ。

現代人は「わたし」と「セカイ」しか見えていなくて、「社会」は姿を消してしまったと嘆いてみるのはいいが、それが私たちの想像力が下がったり小さくなったりした証左になるわけではない。単に、これまでは個人をまとめて世界に接続(した気に)させる仕組み――宗教とか身分とか国家とか民族とか家族とか地域とか会社とか――が機能していたから、自分が直接かかわっているわけではない遠い範囲のことまで想像することに必然性があると信じられていただけのことに過ぎない。

皆に共通する「大きな物語」が信じられなくなれば、自分の身の回りにある狭い範囲の「事実」だけを見て生きていくことになるのは当然だろう。想像力が失われたのではなく、想像する必然性が失われたのだ。元々、そっちの方が自然ではある。そりゃ、そうだろう。顔見知りでもない他人のことを思いやるために必要なのは、想像の前にまず、想像する理由だ。ポストモダンというのは、ずっと隠されてきた当たり前のことが露わになる時代である。


だから、想像力を謳う論者が語るべきはまず、私たちが想像すべき理由である。それは実際のところ極めて困難な作業だが、逃げてはいけない。そして次には、必要とされた想像力を機能させるための回路をいかにして整備するべきか/することができるか、について論を立てなければいけない。想像力の働きを決定するのは個々人の努力や心持ち以上に外的な環境や状況であるのだから、「想像せよ」と述べて終わりでは、お話にならない。人の想像力を補完し、喚起する方策の一つも提示できない、自らの想像力の貧困さを露呈しているだけのことになる。

これは割合幅広い種類の事例に適用できる話だと思う。「想像力」という誰も悪しざまには言えない言葉はブラックボックスのようで、何が入っているのかと思って開けてみれば、論者の主観的な理想だったりする。要するに、大概の場合には、想像力そのものが待望されているのではなくて、論者が望ましいと思う類の想像が求められているのだ。

便利だから皆が使う。だが、少なくとも「想像すべき」(と論者が思う)何かと個々人の住まう現実との間がどのように繋がっているのか、どのように繋げることができるのかを何も示さずに「想像力」を言挙げするのは、無責任な怠慢以外の何ものでもない。例えば本の紹介一つとっても、「想像力を喚起してくれる」とされる本を挙げながら、どのような想像力をどのように喚起してくれるのかについての道標も無しに、「それも想像して」ではたまらんよなぁ、と私などは思うわけで。