stakeholder democracyへの道半ば


最近はインプットが僅少なので、まとまったエントリは書けずにいる。近頃考えることについて、ごく散漫な話をしてお茶を濁そう。

先頃書いた東浩紀的な「民主主義2.0」の解説としては、「「一般意思2.0」の勘所、あるいは「データベース民主主義」の理論的位置」の方が核心に迫っていると思うのだが、ブックマーク数を見る限りでは、先に書いた「ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム」の方が10倍多くの人々に読まれたようで、二つ併せて読まれたいと思う筆者としては少し残念である。ただ、「パラダイム」は元々書こうとしていたことに丁度良い枕ができたと思って「朝生」の話を使わせてもらっただけで、エントリの力点はstakeholder democracy論の正当化にあったから、あれを普段からすると桁違い(?)の人々の目に入れてもらったと思うと、望外に得をしたと言うべきかもしれない。

グーグルアラートが拾って来てくれるものを眺める限り、「ステークホルダーステイクホルダー」という言葉自体はだいぶ浸透してきたな、という感を素直に抱く。私が大学3年生の頃にstakeholder論に注目したのが2004年のたぶん夏で、「利害関係者討議」による決定を説いた卒論を提出したのが2006年の初頭、「利害関係者民主政」を構想してみせた補論を含む修論の提出が2008年の同じく初頭で、それから2年が経とうとしているわけだから、この間、状況もそれなりに変わってはくるだろう。まぁ、ひとまず時宜にかなった研究テーマを選ぶことができていたかな、とは思う(研究方法はさておき)。

とは言っても、政治的決定におけるstakeholderの議論は、濱口さんが仰る通り未だ「生煮え」と言わざるを得ない状況で、浸透しているなどとはとても言えない。濱口さんのブログでのステークホルダー民主主義絡みのエントリに寄せられる反応(コメントなど)の大きさを他の話題と比較しても、関心は今一つなのだろうと思われる。だからこそ先の記事が広く読まれたことは喜ぶべきだと言えるし、stakeholder democracyを唱える数少ない一人として、私こそが関連の話題を細かく拾って注目を喚起していくべきなのだろう。


と言うわけで、濱口さんのブログから私のエントリへのリプライを含むステークホルダー民主主義絡みの記事を3つ、今更ながら貼っておきたい。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-59fa.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-dbb3.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d6bd.html


2つ目の記事における「神の真理よりもこの世の利害」という部分は、stakeholder democracyを「民主主義2.0」と対比する上でも重要な点で、それは「民主主義2.0」を支える哲学的想像力が、まさに「神の真理」のような世俗的利害を超越する何かへの志向性で成り立っているから。東さんは否定神学を批判したけれども、それは超越性の見出し方を批判したのであって、超越性を捨て去ったわけではない。否定神学では現実に対する規制的位置に超越性を見出すが、デリダ=東的な誤配哲学ではコミュニケーションのズレに超越性が見出される。神をどこに見るかの違いであって、超越性による世界支持の発想は捨てられていない。対して、stakeholder democracyが依拠する政治学的想像力はそうした超越性への依存から手を切り、違うものを、強いて言えば世俗的争いの中で流される血や届かなかった声などを想像する――想像しながら踏み潰していく――べきものであるのだと思う。

なお、同記事に寄せられた労務屋さんとラスカルさんのコメントに在る(本来、労働関連のイシューに限られない)代表性の問題は、私が答えていかなければならないはずのことで、こうした具体的レベルの議論に関しては、重い課題として自分の背に載せておかなければならないだろう。これから使い続けるかどうかも分からない言葉だが、多様な「利害関係者意思」をどうやって見出し*1、どのようにして政治的決定へと結び付けていくのかを、具体的な文脈の中で考えていかねばなるまい。


それから、3つ目の記事で引かれている森直人さんのエントリも、同じように利害関係性と代表性を巡るズレと言うかねじれと言うか、そういったものについての話だと思うわけで。現実に考えれば、誰もが何かのイシューに対する利害関係者であるはずで、だから事業仕分けのような場面では総論賛成各論反対になり易いわけだけど、それにしても甘い汁を吸っている一部の既得権益集団と被害者国民という二項対立図式はいい加減どうにかならないものかと、心底思う。しかし残念なことに「利害関係者」という言葉への一般のアレルギーは本当に強くて、だからこそ私はこの言葉を挑発的に使い続けてきた面もあるわけだけど、現実を動かそうとするならばやっぱりそういう無駄な抵抗は止めて、そこでこそstakeholderというまだ日本では手垢があまりついていない言葉を押し出していくべきなのかもしれない。

少なくとも私の理解によれば、こうしたポピュリズム的二項対立図式は社会統合を脅かすポストモダンが必然的に引き起こす困難なわけだが、「パラダイム」で書いたことを繰り返すと、「「民意」や「世論」は代表統治に対応するものですから、現在ではガバメントの限界に伴い、その機能的意義は低下して」おり、「「民意」なるものに踊らされる必然性はどんどん掘り崩されていっているはずなの」にもかかわらず、「民意」への過剰な配慮や忖度がますます問題とされるようになってい」るというねじれが、ここには在る。いや、ねじれと言うより逆説と言った方が正確か。統合がほころび、もはや一体的な「民意」など望めないはずなのに、むしろだからこそ疑似的な「民意」が創出され、政治がそれに踊らされるという。まさに鵜飼さんが指摘した本来的意味でのポピュリズムの発動だ。


まぁ、新たなインプットが無い以上、この辺りのことをいくら書いても繰り返しになってしまう。どうせ繰り返すのなら、引用してしまった方が早いだろう。「パラダイム」でも書いたが、stakeholder democracyを構想する上で重要なのは、利害関係者性や代表性を、従来の政治過程に限らず、多様な「サブ政治」の中で考えることである。


また、人々が政治的有効性感覚を低下させているのは、一面では政治への失望の現れであるが、他面では政治へ期待するところの少なさを示すものでもある。それは、「中央の政治や政党の役割と、現実の市民社会が持つ課題との間に大きなズレ」が生じているからである(篠原〔2004〕、55頁)。現代においては、社会を左右する決定権限の多くが、公式の政治過程における民主的統治原理による統制を受けずに漂流している。積極的な市場取引や利潤の追求、科学技術上の課題の探求などの諸活動が、「正当性の理由づけもされないまま」、社会生活上の変化を次々に引き起こす(ベック〔1998〕、378-379頁)。社会の輪郭は、「もはや議会での話し合いや行政府の決定によって決められるのではな」く、民主的な正統化を経ていない非政治的システムが、優越的な政治的形成力を有するようになる。社会を変える決定は、「どこかわからないところから無言で匿名で下される」ようになったのだ。決定権が政治過程から社会の側に移行しているのならば、政治過程に参加することの意味や必要性が乏しいと感じられるのも当然である。つまり、政治に対する不快感や不全感は、「公権力を委ねられた政治と、社会の広範囲にわたる変化との間に不均衡が生じていることから生じたもの」である(ベック〔1998〕、380-383頁)。


このように技術や経済など元来は非政治的性格を有していた領域が社会に大きな影響力を持つようになって単に政治的でも非政治的でもない独自の性格を帯びることを、U.ベックは「サブ政治」と呼ぶ。サブ政治が拡大すれば、政治の有効性は減衰する。ただでさえ社会の個人化によって利害伝達回路の弱体化に直面している人々にとって、政治が魅力や意義を失っていくのは必然である。


現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー(第2版)


田村哲樹さんによる中山竜一論文の整理を再度見ると、「リスク社会」においては、もはや公共的決定を一部の専門家や行政官に委ねることはできないが、ならばどうすべきかについて、少なくとも以下の3つの選択肢がある。


このうち②は何もしないこととほぼ同義なので、思想的・理論的に意味のある選択肢は①と③のいずれかになろう。大雑把に言えば、安藤馨的功利主義宮台真司的「幸福論」も、そして東浩紀的な「グーグル的公共性」や「民主主義2.0」も、③の中の小分類と見做してよい。少なくとも、それが現時点での私の理解である。それは、①の中で熟議派と闘技派が争っているようなもので、大きな路線の違いと言うわけではない。こういった大別で行くと、私のstakeholder democracyも①の一種と理解されるべきことになるのだろう。それで構わないと思う。

東さんはかつて、「サブ政治」論の本質は社会内に小さな政治が無数に生まれることよりも、従来の(大文字の)政治そのものが「サブ」化していくことだと指摘したが*2、それならそれでいい。そこで、じゃあたくさんある「サブ」を支える何かでっかいものについて考えよう、と行く道も大事だろうが、そういうものとは別に「サブ」一つ一つに共通するような何らかの原理や原則を考えることも必要なのではないか。それは別に小さな公共性や個々の「運動」が大事なんだという話ではなく――いや大事なんだろうが強調点はそこではなく――、「サブ政治」全体に適用されるような「政治原理」について考えなくてよいのか、という話である(と思う)。

こういう言い方をすると、またぞろ「大きな物語」ですか、という反応をくれる人がいそうなので言い方に困るのだが、要するに、政治が無数の「サブ」なものに拡散していこうが、あらゆる政治が「サブ」化しようが、当該政治内部で決定を正統化するプロセスと、そのプロセスを規範的に下支えする価値原理がいらなくなるわけではないよ、ということ。社会構成原理としてのdemocracyは今こそ必要とされているのであって、いささか回りくどかったが、それが再帰的近代における熟議民主主義の推進を正当化する事由でもあったはずである。


ただ、私が熟議民主主義に拒否反応を覚えるのは、何度も繰り返すようにその道徳性の強さ、(必ずしも超越性ではないにせよ)公共性への志向の強さである。私が最初に利害関係者による政治的決定を考え始めた時の問題意識は、自分が関心を持っていないイシューについては、政治的決定から退出する自由をきちんと認めるべきだ、といったものだったので、「市民」を一括りにしてその内部における利害関係の濃淡をさほど重視しない熟議民主主義には、強い批判を抱え続けている。この側面においては、私はむしろ東さんの「グーグル的公共性」に共感する部分が少なくない。

重要なのは自分が関心を持つ決定に対して、影響力を行使できるのか、自分の望む内容を実現できるのかということである。ただし、ここでも微妙な問題が生じる。果たして、自分が望む結果さえ保障されればよいのだろうか、ということが出てくる。システムによって利害を自動調整する「民主主義2.0」においては望むまでもなく自分の「望み」が叶う可能性が出現するが、それでいいのか。よくないのではないか。その場合、結果が先に来て、これがあなたの望んでいたものなんだよ、と欲求ないし選好が後から構成される事態を防ぎ得ないのではないか、そのような事態はシュティルナーの「自己性」に照らして許容すべきでないのではないか。

というようなことを考えて、最近は結果が大事か手続きが大事かという分岐には意味が無いのではないか、と思うようになった。どうも、シュミットやアレントハーバーマスなど、重厚な書物を読み直さなければ思考がまとまりそうにないのだが、そういった時間はなかなかとれそうにない。なので、道は長いなと思うばかり。

*1:この点に関する基礎的な研究は修論で行ったのだが、未だ十分とは言えないところがある。

*2:どこで言っていたのかは忘れた。isedだったかな。