「セックスの社会化」は可能か?


前エントリに対する反応は、目に入る範囲では相対的に批判的なものが多いかな。ブックマークでのコメントにお答えすることは普段無いんですが、「批判を歓迎する」とわざわざ書いたことだし、たまにはやってみましょうか。


(1)まず、性欲が三大欲求の一つというのは、話の導入として俗説に乗っかってみただけですよ。よっぽど「根拠不明」とカッコ書きしようかと思ったけど、わざわざ必要無いと判断しました。だいたい、「三大〜」とかいう類の呼称である時点で、科学的根拠を論じるレベルの話じゃないでしょう。生活感覚の話です。

問題なのは、「我慢しても死なない」からといって「必要」から除外してもいいという論理をもし仮に採用してしまうと、社会政策の範囲は恐ろしく切り縮められてしまうということで、その点は注意すべきでしょう。


(2)関連して、例えば名誉欲のような他の様々な欲求も社会が手当てすべきなのか(そんなことしたらきりがないのでは)、という疑問が存在するようです。この点については、社会政策で手当てできるのは外的に提供・実現し得るものだけである(愛情のような確実に保障できないものは対象外になる)、ということを予め確認しておきたいと思います。

その上で言うと、実は私たちの社会は既に、名誉欲のような外的には充足を保障しにくいと思われる欲求にも(間接的に)手当てを与えています。少なくともそう考えることはできます。倫理学的に言えばジョン・ロールズが『正義論』の中で社会的な「基本財(善)」の一つに「自尊」を数えているのが有名ですし、社会政策学では「相対的剥奪」概念が論じられてきました。これらの議論の蓄積を背景にして考えれば、社会政策とは単に金や現物を給付する(ことによって一次的な欲求を充足させる)だけではなく、それを通じて「人間」としての多様な欲求を充足させることを可能にすることをも目的としていると言うことができます*1

だって、そもそも個人の欲求を社会が手当てすべきなのは、「個人の尊厳」が大事だとされているからなわけで、ここは相互規定的関係にあるのです*2。私が提起したのは、その間接的にでも手当てされる「多様な欲求」の一部として(婚姻や生殖に還元されない)性欲をきちんと位置付けるべきではないか、というだけのことです。


(3)セックスワーカーは体そのものではなくサービスを売っているのだから、臓器売買とは一緒にできない、という趣旨が幾つか見られました。「体を売る」という表現が比喩なのは当然です。愛情の獲得とセックスの実現を区別するために「心」と「体」の対比を用いただけで、本当に体を売っている(だから臓器移植と一緒)と考えているわけでは、もちろんありません。臓器売買と同じだと言ったのは自発性や法規制をめぐる問題についての基本的考え方の話で、出来事の性質そのものの話ではありません。何だか誤解を生みやすい書き方だったようで、申し訳。


(4)あと多かったのは、「男の視点でしかない」「男のことしか語っていない」という類の意見ですが、前者はまだしも後者は受け入れられません。私は一貫して「セックスワーカー」と書いてそれを女性に限定しませんでしたし、「買う側」とは書きましたが「買う男」とはしませんでした。

そりゃあ私は現に男ですから、とりわけセクシュアリティという個人的経験が大きく投影されるテーマについて論じるにあたって、その被拘束性が論に与えた影響を否定するような愚は犯しません*3。ただ、何かを論じる際に私はいつも、主体が避け得ない被拘束性は前提としながらも、できる限り普遍的に適用できる論理を組み立てようとします。

性のケイパビリティの話もセックスバウチャーの話も、男性だけを対象に考えたわけではありません。男性と形は違えど、女性にもセックスへの欲求はあるし、マスターベーションをする人だって珍しくないでしょう。女性以外のセックスワーカーも男を買う女も実際にいるわけで、あの文面を見て「男のことしか語っていない」と判断するとしたら、その人の中にこそ女性のセクシュアリティについてのステレオタイプを見出すべきではないでしょうか。


(5)なお、私は「非モテ」という呼称が何を指しているのかもほとんど知りませんし、小谷野敦本田透も読んだことがないので、そういった系列での議論との関連はよく分かりません。興味も無いので、その辺は読者諸賢が勝手に解釈してくれればよいかと。


(6)あと、これは言うまでもないことだと思いますが一応確認しておくと、官公庁が運営・管理する公娼制度を主張しているのではなく、セックスワークを普通の民間の商売の一業種として認定したらどうかという話をしています。そうしたら、他の商売や労働と同様に法の規制と保護の下に置かれるのは当然でしょう。行政の監督云々はその程度の話です。


(7)そういえば、かなりクリアに書いたつもりだったのですが、私が性欲に類する欲求を細分化した上で議論していることを無視して下さっている方もいらっしゃるような…。とりあえず行為で分けると、繁殖への欲求、婚姻への欲求、恋愛への欲求*4、セックスへの欲求、マスターベーションへの欲求、ぐらいは区別すべきではないでしょうか。

難しいのは、同じ行為を選好するのでも、そこに何を欲求しているのかが同じとは限らないし、ふつうは様々な欲求が混ざり合って行為への欲求を形成している点です*5。セックス一つするのでも、子どもが欲しいからするのか、相手を愛しているからするのか、むしろ相手の愛を獲得するためにするのか、単に性的快楽を得たいからするのか、心理的達成感ないし自尊感情を得たいからするのか、など様々な可能性が有り得ます。

私が社会的に手当てした方がいいんじゃないかと思う「セックスへの欲求」は、「愛情への欲求」とは区別されるにしても、単なる性的快楽だけではなく、もう少し心理的・精神的な側面をも伴ったものとして観念されています。ちなみに、セックスが性器結合には切り縮められないということは、「裸になって抱き合いたい」という表現に込めていたつもりです。


(8)一夫一婦制と関係ある話なのかはよく分かりませんが、法律婚は廃止して構わないと以前から思っています。ただ、たぶん問題になるのは制度的なことそのものよりも、独占感情の処理の方でしょう。

セックスバウチャーのことを書きながら頭をよぎっていたのは、これが実現すれば女性が堂々とセックス産業の消費者となっていくだろうか、ということです。実際はそうならないかもしれませんが、そこで試されるのはむしろ男の側です。「買う男」として振る舞う夫は、「買う女」となった妻を許容することができるのか。

男は浮気しても仕方ないが女の浮気は絶対に許されない、という風潮は未だに強いですが、自分の愛する女性がセックスへの欲求を満たすために他の男に身を委ねるという状況を受け入れることが、果たしてできるのか。性のケイパビリティについての議論は、まずそうした対称性に触れて煩悶するところから始まらねばならないのでしょう*6

*1:最大限に譲歩しても、なお「機能」とはしていると言うことができます。

*2:社会政策は社会の側が思い描く「人間」としての「必要」を手当てするために行われるわけですが、その中で個人の欲求は社会的な想定を超えて様々な方向に成長していくので、色々な不足や摩擦が起きます。それに対応しようとするのがベーシックインカムの構想なんだと思います。

*3:だから、こういうことを考え・書いた動機に「買う自分の側の自尊心をどうにかしたいという意識」が絡んでいるのではないかと言われたら、私は否定も肯定もしません。そういうこともあるかもしれないな、と思うだけです。

*4:「愛情」への欲求ではない。

*5:ただし、これはセクシュアリティの問題に限った話ではないので、だから社会的手当てが困難だと結論するのは短慮だと思います。

*6:まぁ、だから内省的な研究も必要なんだろうなぁ、という当たり障りの無いところに落ち着きますね。何て円満な。