政治学のたそがれ?


最近は本を読む機会が減ってネットばかり見ているが、そうすると、この国には政治学者がいないのだろうか、という気になってくる。ネットで目立つのは経済学や社会学、哲学の研究者や批評家・運動家ばかりで、政治学関係の研究者は一様に慎ましい。多少なりとも目に入るのは(本人の自称はさておき)政治評論家や政治ジャーナリストの類で、いわゆる政治学者はネット上に一定数散在しているものの、他の分野の人と絡んだり旬の話題に口を出したりすることを避け、近況報告や内輪のコミュニケーションに明け暮れている傾向が強い。

試しにブログ検索で「牧原出」や「待鳥聡史」などを入力してみても、松井さん砂原さん山田さんの3ブログ以外はほとんどひっかからない。これは深刻な問題である。他の分野と比べ、政治学者はウェブ上で過疎状態にあるのだ。


事態はネットに限定される話ではない。今、相対的に勢いのある媒体である『思想地図』と「シノドス」への寄稿者で何の留保も無く政治学者と呼べるのは、田村哲樹・吉田徹の2名のみである。それに準ずるのは政治史の原武史ぐらい(しかし直接に政治の話をしているわけではない)で、萱野稔人は哲学者、白井(聡)さんは社会思想史研究者として除外される。しかも田村さんは政治理論(熟議民主主義)、吉田さんは比較政治(フランス)が専門のため、Political Scienceや行政学方面の研究者は全く書いていないことになる。地方自治研究者すらいない。

状況は『ロスジェネ』でも『フリーターズフリー』でも『POSSE』でも変わらない。より「政治的」とされる『VOL』でも、哲学者と社会学者が主で、政治学者の姿などほとんど見えない(この点は『現代思想』でも基本的に同様)。

第一線で活躍する経済学者や社会学者がネット上で尖鋭な議論を交わし、各学問の社会的アウトプットを盛んに発信するとともに、そこから紙媒体での仕事にも結び付けていっている一方で、政治学者には最近創刊したどの媒体からも一向にお呼びがかからない。政治学者はウェブ上でいないも同然であるだけでなく、どの雑誌にも必要とされていないのである*1

これを深刻と思わずにいられようか。誰もが政治を語りたがるのに、それを専門とする政治学者にはどこからもお呼びがかからない。経済を語る際には専門性を尊べとうるさいのに、政治については理論的根拠が乏しい印象論を堂々と語ってはばからない人が多く見られる。政治学を軽んじる側も問題だが、政治学者の側ももっと危機感を持つべきだ。これは、固有の学問分野としての政治学の存続がかかった大問題なのである。


東さんはツイッター上で以下のように述べており、「東さんの構想はむしろ「代表」の中身を刷新するものなのだ」とした私の言が裏付けられた形になっているが、そうした「民主主義2.0」の可能性を本気で考えるならば、『思想地図』第2期には政治科学ないし行政学を専門とするゴリゴリの政治学者をきちんと呼ぶべきなのだと思う。


東浩紀の考える民主主義2.0の要は、ネットでも直接性でも中立的な技術の導入でもなく、代表制の変換です。ディレクトリ型の社会からタグ型の社会への変動を受けて、いかに代表=媒介のシステムを変革するか、それが問われている。

しかしながら、「バズワードとしての「アーキテクチャ」には、「工学と経済学のタッグでもって、法学・政治学に取って代わる」という野心が聞き取れる」らしく、「政治学者って消去対象になっている」らしいので、それは望み薄なのかもしれない。実際、経済学の方面からも「民主主義2.0は経済効率性というまさに経済学の対象そのものが課題なので、行政学や政治過程論よりも経済学が扱う方がいいでしょう」と述べられ、(「民主主義2.0」そのものへの賛否は別にして)議論が資源の適正配分に限定されるべきことが前提にされている。経済学が割り出した最適の枠組みを工学的に実現すれば十分で、制度設計に政治学など必要無いということなのだろう。こうして多方面から政治学の必要性は疑われ、いずれ駆逐されていく運命にあるのかもしれない。それがリバタリアン・パターナリズム派の結論なのだろうか。


案外、社会学やら批評やらの文脈を押さえられていて、シュッとした風貌でソフトな語り口が売りの俊英政治学者が現れれば事態は簡単に変わってしまうのかもしれないが、そんなことは期待の対象にならないだろう。もっとも、政治学にも優秀な人は山ほどいるはずなのに、なぜ経済学における飯田泰之のような人が政治学者で出て来ないのか、不思議な気持ちと残念な気持ちを併せて抱かずにはいられない。

色々な政治学者のブログを巡回してみると、政治学の話題は内容がテクニカルになり易く、一般にアピールしにくいということがあるのかな、という気にもなる。経済学ならば元は専門的な話題でも、そこからのアウトプットとして政策提言などに結び付けた話がしやすい。政策の内容を問えるからだ。これに対して政治思想史・政治理論でない政治科学は、政策の成り立ちそのものを扱うので、一般にアピールするような形でのアウトプットはなかなか出しにくい*2。したがって、政策の内容と密接に関係する価値の問題を扱う思想史や理論の研究者に発言の場が与えられることが、どうしても多くなる。そういうこともあって、Political Scienceそのものをやっている人に「民主主義2.0」ムーブメントと渡り合う様な議論を期待するのは、なかなか厳しいのかもしれない。現実にはやはり、ポリサイ方面での研究蓄積を背景にしながら、思想史や理論をやっている人が政治学的知見を代表して発言していくしかないように思える。


しかし、政治学者がノーベル経済学賞を獲っていることを考えると、アプローチ次第では政治学に未来が無いわけでもないだろう。いずれにしても個別の学問分野の中に閉じこもったままで生き残ろうとするのは、政治学に限らず無理な話だ。『レヴァイアサン』がニューロポリティクスを採り上げるなど、色々と頑張っているところもある。まずは政治学の話を聞いてもらえる方法や場をどうにかこうにか作っていくことからしか始まらない。

*1:中央公論』や『世界』には政治学者の論説が載ることも少なくないが、これら総合誌に登場する政治学者は面子がほぼ固まってしまっている。その他の媒体はいちいち挙げるとキリがないので控える。

*2:現実には、アピールした結果の事例として「小選挙区制」や「二大政党制」などがあるわけだが。