正義の否定的弁証について


本日、HPに「正義の否定的弁証について――「来るべき民主主義」と「関係の絶対性」――」と題する論文をアップしました。内容は、「正義の臨界を超えて」(「神と正義について」)に手を加えてまとめたもので、簡単に言うとデリダの「来るべき民主主義」を批判しつつ、それとは違う道を吉本隆明の「関係の絶対性」の中に読み込むというものになっています。少なくとも去年の3月中には草稿が出来ており、6月に微修正して仕上げたのですが、諸事情により今日まで寝かせておいた次第です。

元々の文章で最後に示唆された可能性の探究は、その後執筆した修士論文の主題の一部を形成することになりました。したがって、今回の論文化に際しては、修論における検討の成果を生かすことで、主張が一層明確になっています。中心となる部分はほとんどそのままながら、結論へと至る部分には大幅に加筆を施しており、論の尖鋭さが増していると思います。


筆者としては、相対主義に「陥る」ことを拒否して否定神学に奔る人々を批判するという趣旨から、この論文は「倫理学の根本問題」の姉妹編であると捉えています。私は価値相対主義者ですが、元の連載エントリを書いた時から、できる限り相対主義批判に内在的な理解に努めて、読者と歩みを共にしながら、相対主義を乗り越えることが本当に可能なのかを慎重に検討する、というアプローチを採用していました。

「この世に絶対的なものが在るか」というテーマはとても興味深いものでしたから、在るなら在るで面白いと本当に思い、考えながら書き、書きながら考えました。その結果、私の結論は絶対神の虚像を打ち砕こうとするものになりました。その間に、絶対的なるものの存在と不在については他の人よりも大分真剣に考えたという自負があるので、私の中には、ナイーブな相対主義者と一緒にして欲しくはないという思いがあります。それは多分、暴力の問題について真剣に考えた末に平和主義と袂を分かった人間として、ナイーブなアンチ平和主義者に対して覚える「イヤな感じ」と同様のものなのだと思います。


さて、今回の加筆で試みたのは、相対主義の乗り越えが不可能だとして、それでもなお絶対的なものはあるのか、それは何か、という問題に連載時よりも踏み込んだ答えを出すことでした。まず、絶対的な「全き正義」などは在り得ません。そのような正義とは区別される、規範としての<正義>は、普遍的に適用されなければならないものであると同時に、現実に在り得るものとして相対的なルールでしかありません。それは、一定の社会秩序を形成するための道具として、その中身は他で有り得る、代替可能な一つの選択肢に過ぎないのです。倫理学では、正義と善、社会道徳と個人道徳は区別される傾向にありますが、それらは最終的には各々の個人が良かれと思って信じ・コミットする価値であるという意味では、本質的に等価と言えます*1。もちろん、「自分が良かれと思ったことを貫けば社会が良くなるとは限らない」という意味での社会道徳と個人道徳の衝突や不一致は在ります。しかし、それは主として信じる価値の社会的機能や帰結における差異の問題であり、価値の根本的な絶対性/相対性のレベルでの区別は不要でしょう。

私が悩んだのは、私たちが会話で用いる言葉の中には、どの道徳や規範にも収まらない言明としての「正しい」や「間違っている」があるのではないか?、ということです。相手に向かって「お前は正しい/間違っている」と告げる時、あるいは自分自身で「私は正しい/間違っている」と発する時、そこでは一般化を求めない(社会が従うべき規準を主張しているわけではない)ながらも、世界を貫いて普遍的に放たれる何らかの「ただしさ」への確信を伴った言明が見出せることはないか。それは単なる好き嫌いとは違う、確かな「ただしさ」のレベルに照準しているのです。

それは例えば、明確ならぬ感触への察知としての「〜しなきゃいけない気がして」とか「〜しちゃいけないと思ったんだ」などといった言明のことを意味しているのでしょうか。部分的にはそれもあるのかもしれません。ただし、これらはかなりの程度まで、「自分はどのように振る舞うべきか」「自分はどのような人物であるべきか」などについての個人道徳へのコミットとして説明可能なものだと考えられます。これらは内的な規範として基本的に自分自身のみに適用されますが、他者への働きかけに用いられることもあります(個人道徳の提示・共有)。とはいえ、現実の個人道徳の多くがそうであるように、それほどの一貫性は持たないために規範としては不全で、アドホックに現われる信条ぐらいに捉えておくのが妥当ではないでしょうか。

私が把握したいと思ったのは、そうしたものと全く無関係ではないながらも、もっと圧倒的な、倫理を超えたところで発せられる「ただしい/まちがっている」。そうした言明を可能にしているクリアーな感覚でした。それは何なのか。その「ただしさ」は何を主張しているのだろう。それは何らかの「内容」ではないのではないか。なぜなら、「内容」とは誰もがそれぞれの好きなものを盛り込むことができる、代替可能で相対的なものでしかないからだ。むしろ、主張されているのは「意志」ではないか。内容=意思と区別される「意志」は、それ自体が取り替えのきかない唯一的で普遍的で、絶対的なものだと言える。つまり、倫理を超えた「ただしさ」とは、何かを「正しい」と確信する意志、その熱量の放射なのだ。

おおかた、このように考えました。これで合っているのかどうかは知りません。でも、加筆部分後半のドライブ加減は凄かった記憶があります。細かな論理の詰めとか、そういうことは一旦全部横に措いて置く外ないなと思うくらい、ぶっ飛んでいます。まぁ、その辺の是非はともかく、この論文が先の「倫理学の根本問題」と並び立つことによって、価値相対主義の擁護がより厚みを増すはずだということに関しては、自信を持っています。ご一読あれ*2

*1:「人はいかに生きるべきか」について個人を内的に律する個人道徳も、それが規範である以上、一貫性を持たねばならず、融通無碍に運用されることは本来許されないはずです。

*2:こちらこちらも併せてどうぞ。