続・共同性の政治学


2005/07/10(日) 16:20:18 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-99.html

共同性の政治学*1


の続き。


前回の関心(主に齋藤純一からの引用部前後)につなげる形で、今回はまずピョートル・クロポトキン『相互扶助論』(大杉栄訳、同時代社、1996年、原著1902年)の引用から始めよう。


同業組合は実に人生の奥深く根ざした要求に応じたものであった。後世の国家がその官僚政治と警察とのためにセン有した一切の職分およびさらにそれ以上のものを具体化したものであった。あらゆる情況の下における、またあらゆる生活上の出来事についての、「実行と忠言」とによる相互支持の団体であった。正義を維持する為の組織であった。そしてそれと国家との差異は、国家の干渉の根本的特質として、いつも形式的の要素を持ち込むのに反して、同業組合にはそれらのいっさいの機会に人道的および友愛的の要素を引き入れたことである。
(197頁、強調は引用者、セン=「にんべん」に「替」)


ここで述べられているのは、中世ヨーロッパの都市における同業組合内での相互扶助についてであるが、このエントリの関心からすれば、国家と対比する対象を特に同業組合に限る必要は無く、狭い地域共同体のようなものも同様の性質を持つと考えて、両者をまとめてしまって構わない。
つまり、現実に共同性実感が存在するような、「顔の見える」範囲の共同体として同業組合や地域共同体があり、より広範囲の地域・階層にわたるがゆえに共同性実感が希薄でありながらも、非人称の連帯を強制的に媒介するような機械的共同体として国家がある。
両者とも共同体の性質上、個人への「干渉」を行うが、「顔の見える」共同体はそこで「人道的および友愛的の要素」を伴うのに対して、国家は「形式的の要素」を以てする。クロポトキンの言う「形式的の要素」が何であるか今ひとつ明快ではないが、ともかく、その「形式的の要素」的な性格からこそ得られるものがあり、その大きさを指摘したのが、前回の齋藤純一からの引用部であった。


ちょっと今回は、ひたすら引用になるかもしれない。自分の考えはまだまとまっていないのだ。と言うか、「共同性の政治学」と銘打ったのはいいが、何が問題であったのかもよくわからなくなりかけている。それを探り直そう。
次は、奥平康弘と宮台真司の対談『憲法対論』(平凡社新書、2002年)から、奥平の発言。


 愛国心といわれる問題は、そこに一種の琴線に触れる部分があると思うけど、僕はそういうエモーショナルな意味でのクニというのと別に、特定の具体的な人間たちによって運営されている権力構造として制度的にある国家を愛せとか、その国家を牛耳っている権力者たちのやったことや現にやろうとしていることを愛国心の名において賛成しろ、反対するな、と言われると、猛烈にカチンとくる。
 国家を考えるときには、僕は、憲法を中心として憲法を愛するがゆえに、僕が属する共同体に愛着を覚え一体感を感ずる部分があり、それゆえ共同体にコミットするという局面がある。他方、共同体というもののうちに、日本という国土に住む人たち全員により、全員が共存するために、政治的コミュニティがある。これが、憲法により構成された国家というコミュニティであるわけです。このコミュニティは、万人のためにのみ設けられたものであり、基本的自由が保障され、基本的な財が平等に配分されるためのいろいろな仕組みがなければならない。これらを定めたのが憲法である。「これでいきましょう」と定めたルールあるいは約束が憲法だと考えるわけです。国家は運営されるためにあり、運営を促し監視するのが憲法なわけです。憲法はただ文字として在るのではない。動かすためにある。誰が動かすのか。我々であり、我々以外にないわけです。憲法を活かし働かせるなかで、憲法アイデンティティを感じるようになり、憲法パトリオティズムが生まれる。こう考えるのです。
(247〜248頁)


パトリオティズム」とはいわゆる「愛国心」と訳されるものであるが、原義は「愛郷心」である。そこで宮台は、奥平の発言の後で、「故郷喪失者」の集まりであるアメリカでは、マイノリティも含めて必然的に「憲法パトリオティズム」になる、と指摘する。つまり、自然的な共同性が存在しない為に、人工的・機械的な国家システムとそのシステムを動かす信念体系(およびその表象としての憲法)に対して忠誠心の対象、共同性の根拠を見出すわけである。
「エモーショナルな意味でのクニ」が必ずしも「顔の見える」範囲の共同体ではなかったとしても、そこにはそれなりに確からしい共同性実感があるわけだ。そして、それとは別に、あるいはそれの上に、政治的コミュニティ・国家システムが存在する。
単に自然的な共同体を基礎にした政治的システムとしての国家共同体であるのなら話はまだわかりやすいかもしれないが、ここに憲法どうこうといった信念体系が絡んでくると、ややこしさが増す。信念体系の共有を共同性の根拠とするのなら、自然的共同体内での理念対立が先鋭化する一方で、共同体内外の結びつきが強まるので、共同体の境界はぼやけ、流動性を増してしまう。


続いては、宮台真司・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』(双風舎、2004年)から、宮台の発言。


 リベラリズムの本義は、立場の入れ替え可能性の確保です。昔ならば平等の確保に当たる。ゆえに、どの範囲が、立場可換であるべきか、平等であるべきかについて、前提の共有を必要とします。要はどの範囲が「我われ」か、です。ただし、どの範囲が「我われ」であるにせよ、いつも「我われ」と「我われでないもの」の区別の線が引かれていることが重要です。
 男の女の間に区別の線が引かれています。すると男も女も同じ人間なんだから、同じに扱えとの異議申し立てがあり得ます。今度は、人間と人間でないものとのあいだに区別の線を引く。たとえば人間とクジラの間に区別の線が引かれます。すると人間もクジラも知能が高いのだから、同じに扱えとの異議申し立てがあり得ます。
 ことほどさように、どんな区別も問題を孕みえます。知能の低い人間と、知能の高いクジラ。人間性のかけらもない人間と、情に厚い犬。どちらの尊厳が上か。ロールズ的にいえば、どちらの立場の入れ替え可能性を想像しやすいか。遺伝学的な人間よりも、知能を持ったクジラや情に厚い犬のほうが、感情的な立場可換の対象になりやすいかもしれない。
(64頁)


 共同体の範囲、つまり我われの範囲を、こうやって拡げていけば、人間だけでなく、動物も植物も、場合によっては様ざまな無生物も入ってくるかもしれません。そんななかで、共存共栄とは何なのか、なぜ共存共栄しなければならないのかを、考えるしかなくなってきているのです。
 自分たちの共同体だけ生き残り、ほかの共同体は死滅してもいいだろうという、ネオコンのようなシニカルな考え方があり得ます。どうせ恣意的な線を引くんだったら、どこに引いてもいいだろうというわけです。これに対して、どこに線を引くべきなのかを永久に考え続けることで、共同体の共存共栄を図ろういう考え方があります。
 どちらがいいのか。私自身も迷うことがあります。しかし、迷っていいのではないか。「絶対にこれだ」と決めつけないで、迷いながら、機会主義的に、一貫しないかたちで、その都度アクセプタブルな道を探っていく。普遍性や一貫性を求める過剰なラディカルさを戒めながら、モデレートに「ああ、それもあるね」とやっていくしかないのではないか。
(80〜81頁)


こんなに引用してばかりでいいんだろうか。
しかも、信念体系云々の話からずれてしまった。まぁ、いいか。
ともかく、共同性の条件を立場可換性に求めるのであれば、信念体系の問題に限らずとも、どんどん共同体の境界は曖昧になっていくわけだ。同じ共同体内に生きる彼らよりも、遠い別の共同体内に位置する誰かとの方が強い共同性を感じる場合は、いくらでも有り得る。その時に、私が、この共同体に、彼らと、生きる「正当な理由」は何なのか、見失ってしまう。


そもそも、私は共同性実感と立場可換性とは別次元の問題であると考えている。ロールズの「無知のヴェール」とか立場可換性というのは、結局「お前があの立場だったらどうだ」と問う(+「お前もいつあの立場になるかわからないんだぞ」と問う)もので、その後に「だからお前があの立場になっても困らないようにしなさい」と諭す手法なわけだけど、これに対しては、「それとこれとは話が別」という回答が有り得る。
つまり、第一段階の立場可換性については首肯できたとしても、第二段階になると、別に共同性は感じないという場合が有り得る。共同性を感じなければ別に助け合う理由もないし、扱いを平等にする理由もない。
もちろん、感情の問題はそうでも、論理的には立場が可換なんだから平等に取り扱うようにしましょうよ、という枠組み上の問題がメインなのかもしれない。だが、重要なのは、感情の問題なのだ。


しっかり反証できていないのはわかっているが、とにかく私は、共同性・共同体に関する問題の要諦は、立場可換性ではないと思う。結局、立場を取り替えるなんてことは、誰に対しても、何に対しても不可能ではない。そんな際限もなく延べ広がっていくものが、「区切り」の根拠になりうるとは思えない。しかし、感情の問題、事実性の問題こそが重要である、という点で、宮台や彼が言及するローティーの考え方は興味深い。ローティーデリダ、そして両者をつなぐ仲正などが、「法」の問題とも絡んで重要なのだろうと思う今日この頃。今後の大きな課題の一つである。


相互扶助論

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憲法対論―転換期を生きぬく力 (平凡社新書)

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日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

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