『アダム・スミス』 高島善哉


2005/07/14(木) 14:42:40 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-100.html

岩波新書、1968年


 まず人間とはそもそもなんであるか。人間は一方からみれば理性の持主であり、精神の所有者である。この見方によれば、理性や精神の自覚の弱い人間は真の人間ではないということになる。(理性や精神を極限にまで高めると神の観念が現われる。)他方からみると、人間は情念や欲望の束のようにもみえる。この見方によると、情念や欲望を不当におさえつけるのは人間的ではない、反対にこれをあるがままに肯定していくほうが人間的だということになる。人間はまた感情の動物だともいわれるのであるが、感情が豊かであるということは、その人間が生きている証拠であるともみられる。この見方によれば、人間の研究は人間の感情の研究でなければならないということになろう。
(中略)
 近代市民社会の思想家たちの人間観はどんなものであったかというと、いま述べた理性的精神的な人間観ではなくて、人間を情念や欲望の束と見たり、また人間を感情の動物のようにみたりする人間観であった。こういう人間観は、いかにも唯物論的な人間観だといわれそうな人間観である。そしてこの「唯物論的」という言葉の中に非難や軽蔑の気もちをこめて使う人が現在でも必ずしも少なくないのではないかと思われる。しかしこれはまちがっている。その理由として私は二つの点をあげておきたい。
 まず第一に、市民社会の思想家たちが人間を「唯物論的」にみたということは、とりも直さずこれまで人間の上におしつけられてきた不当な抑圧から人間を解放しようとすることを意味した。「自然に帰れ」(ルソー)という呼び声がここから生まれる。だから唯物論的人間観は、十七、八世紀のイギリスやフランスでは立派な人間解放の思想であったといえるのである。
 第二に、人間を欲望の束とみたり感情の動物とみたりするのは、実は人間を一つの自然としてみることであって、それは自然科学者が本来の自然を観察するときにとる態度なのである。だから唯物論的な人間観というものは、科学的な人間観の最初の形なのである。自然科学者そのものは研究心と観察力と分析力を持った理性的精神的な人間であることにまちがいはない。それと同様に、唯物論的人間観をもっている人も立派な理性的精神的人間であることに変りはない。フランスの百科全書派の人たちはみなそうであった。彼らはみなアンシァン・レジームから人間を救い出そうとする思想の持主、つまりヒューマニストであった。
 以上簡単な説明からでもわかるように、唯物論的な人間観というものは、人間を科学的にみようとするエトス(思想態度)の現われであって、近代の社会科学というものはこのようなエトスから生まれてきたのであった。ホッブズからロックをへてスミスにいたるイギリスの啓蒙思想家の間では、人間性の研究というものが活発に行われた。人間性 human nature というのは、言葉どおりに読むと、人間的自然である。すなわち本来の自然にたいして人間という形をとった自然である。わがアダム・スミスは、こういう意味での人間性のすぐれた研究者であった。それは人間をありのままに、血のかよった、生きた人間として再建しようとするパトスから生まれたものであった。
(66〜68頁)


 実は、モラルという言葉を道徳という日本語に翻訳するときに誤解が起りやすいのである。スミスは、利己心によって導かれている経済の世界も、正義のセンス(情感)、共同体のセンスによって導かれている他の世界での人間の行為も、すべてモラルの世界だという。ここでモラルといわれる言葉には二つの意味があることを注意したい。一つは人間がその内から発する行為、したがってたんに本能や衝動によって動くのではない人間として責任のとれる行為である。モラルのもう一つの意味は、社会的という意味である。 (中略) ソシァル・サイエンス(社会科学)という言葉が現われたのは十九世紀になってからのことであった。それまではモラル・サイエンスという言葉が用いられていたのである。こうしたこともスミス理解にとって一つの手助けとなるのではなかろうか。
(77頁)


 経済の世界というものは、前の二つの世界に比べると、よほどその性格がちがうようにみえる。経済の世界というものは富づくりの世界である。人はこれによって自己の物質的な境遇を改善しようとするものである。それでは経済的行為というものは徳とはなんの関係もないものであろうか。スミスによれば断じてそうではない。経済の世界には慎慮の徳という徳性が存在する。むだ使いは徳ではない。役にも立たない不生産的なことに労力を濫費するのも徳ではない。経済の世界には合理的な計算と、あとさきの配慮と、慎重な見通しが求められる。デフォーの描いたロビンソン・クルーソーはまさにこのような人間の典型であった。これがスミスのいうところの慎慮の徳なのであって、こういう意味で、市民社会においては経済人はもっとも有徳な人間の一人とならなければならないのである
 経済人が有徳な人間でなければならないとは? 読者の中にはとんでもないといった顔をする方があるかとも思う。しかし徳 virtue という言葉のもとの意味は力ということである。有徳な人とはもともと力強い人、四囲の状況を正確に判断してそこから的確な結論と有効な処置をひき出しうるような人間のことである。近代的な経済人はこのようなものでなければならないとすれば、スミスが経済の世界を広い意味でのモラルの世界へ入籍させたのは、まことに道理にかなったことであるといわなければならない。スミスのセンスはまさに近代的であったのである。
(81〜82頁)


強調:引用者


アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)