アナーキスト向け


2005/07/21(木) 02:26:41 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-104.html

『アナキズム』第六号(特集:個人主義──叛逆の原点)


購入。とりあえず、特集記事の主だったところだけ読んだ。
一応以前にも紹介した立場から言うと、まぁ一般の方はわざわざ購入する必要は無いな。定価千円も、雑誌と考えれば安くないし。個人主義特集ということでバックナンバーからすれば比較的価値はあると思うが、ボリューム的にもさほどだしなぁ(特集分は約70ページ)。
いや、別に悪口言うつもりはないのだ。滅多に刊行されないんだから、試しに買ってみてもいいと思うし(オンライン注文可能)、買うならこの号だと思うしね。
それで、とりあえず特集の内、主要な三つにコメント。


・巻頭言「個人に優越するものはない――利己主義のすすめ」高橋幸彦


ま、とりあえずこれはこれでいいんじゃないか。自己責任や公共についての愚痴に新味は無いけれど、「幸福の島」の話はなかなか考えさせられるものがあるし、結論近くの「そんなことは私の知ったことではない。嫌なものは嫌だ。」で全て簡単にかたがつくと言うのは判り易く、正しい。
ただ、この断言の後に「自分の人格にある利己主義を認めるからこそ、他人の人格を認められるのではありませんか。」とか「他人を理解する・他人を思いやるということは、他人の利己主義を認めなければ不可能なのであります」とかいうエクスキューズじみた主張を並べることが、果たして必要なのかどうか。もちろんこれは、あくまで高橋氏の個人主義・利己主義にすぎないので、それはそれでいいのかもしれない。だけれども、こうしたありふれた但し書きを伴わせるのであれば、別に自由主義や民主主義が基礎においている旧来の個人主義との差異はぼやけてしまい、「え?、で、結局、利己主義って何なわけ?」と絶対言われる。
そのエクスキューズや但し書き自体はわかるんだけど、利己主義や個人主義に利他的な、あるいは人道的な彩りをつけようとするような語り方は果たしてどうなのか。摩擦を恐れず、もっと尖鋭的なエゴイスティックな語り方こそ、むしろ必要かつ有効なのではないだろうか。ま、これは私の意見で、多分高橋氏の意図とは相容れないのかな。


・論説「逸脱の自由――脱権力のムーブメント」DJ WATERR(TAKASHI IKEDA)


積極的自由ではなく消極的自由を、権力の奪取よりも脱権力、逸脱の自由をこそ求める。それはわかる。でも今更それじゃダメだ。悪いけど、現状認識が甘い。逸脱とか祝祭とかシステムに風穴とか何かそんなんのダメさを、改めて近いうちにまとめときたいなと思うけれど、とりあえず今日は、たぶんその「逸脱の自由」とやらは許されますよ、とだけ言っておく。これからのシステムはそういう逸脱をどんどん許容していく方向に行くだろう。逸脱したい?、ああ、どうぞご自由に。ま、そのかわり逸脱した先に何にも無いですし、逸脱者まとめて圧し潰されるだけですけどねーっ、てなもん。そういう現状認識があるから、逸脱的なものを防いでいこう、社会に包摂させよう、コミットさせよう、という方向の戦略を立てる人がいるのだから。こう批判している私も辛いのです。わかってくれ。


・真景三廃人漫談『個人主義はクズでございます』小谷のん/乱乱Z/タナカ


目玉の鼎談。内容は個人主義アナーキズム個人主義アナーキズムの接点とか違いとか。
とりあえず、アナーキズムを突き詰めると個人に還るとするタナカ氏より、アナーキズムは結局「体制」だとするのん(きち)氏のほうが妥当でしょう。
もちろん無権力・無支配を目指すアナーキズムを徹底するなら個人に還っていかなければ「いけない」、というのは至極当然だが、現実のアナーキズムはそうでない。だから、もうアナーキズムは「社会的アナーキスト」達に完全に譲り渡して構わないと、私は思う。無理して個人主義アナーキズムなどという夢想を語ることはないのだ。実在してきたのは、実在しているのは、アナーキズム(=非個人主義的)と個人主義だけであり、個人主義アナーキズムなどは存在しないし、必要もない。
ゆえに、アナーキズムに親和性を持つ人で、個人主義的な志向性を持つ人に残されている道は三つぐらいではないか。すなわち、①右転回してリバタリアンorアナルコ・キャピタリストになるか、②のんきち氏が自称するような「ニヒリスティック・エゴイスト」になるか、あるいは③ニヒリスティックでないエゴイズムなんていううさんくさいものを模索してみるか。
それはともかく、ゆるい鼎談だが注も充実していて、勉強にはなった。


ま、大多数の人にとっちゃ、どうでもいいことかな。