「市民社会」という彼岸/悲願


2005/07/21(木) 22:59:39 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-103.html

『社会認識の歩み』内田義彦(岩波新書、1971年)


こういうところばかりを引用すると、うんざりした声が聞こえてきそうだけれども。


 しかし私がここで注意したいのは、「テイク・パート」という言葉が日常の世界で日本語に訳されると、意味内容がすっかり変ってしまうという事実です。
 ある特定の人が、ある特定の仕事を責任をもって果たす。そういうことを別にして、仕事一般に込みで参加したということはいえない。「参加」(=分担)というのは、一人一人の決断と行為と責任を背景にもったきびしい言葉です。それは、同じ言葉を使ったパーティシペイションという用語例を見ればわかります。
 ところが「参加する」という日本語は別の響きといいますか、倍音構造をもっておりまして、その共鳴版にかかると、このオリンピック用語も、ともかく顔を出しておけばいいんだろう、何しろ参加することが大切だからという、はなはだ無責任な言葉に化けます。
(中略)
 実は、これは言葉だけの問題じゃないんです。「参加」という鋭い言葉が正反対の無責任な言葉に化けちゃう、という言葉の世界での現象の背後には、日本の社会の特質、社会への個々人のかかわり方(=分担の仕方)の問題があります。個人が集団に埋もれちゃう、ということですね。集団を丸がかえにしたエライ人になるか、集団に埋もれるか、いずれにしても自覚した個々人が、共同の行為で共通の目的をもった集団を形成することが少ない。
(18〜19頁)


 Gattungswesen という言葉がよく使われます。類的本質というんですか。マルクスの『経・哲草稿』の言葉です。
(中略)
 ちょっとむずかしくなったんで、ポストヴェーゼン(郵便)を例にとって注釈を加えておきましょう。郵便を配達する人だとか、仕分けする人とか、さまざまなものが有機的に組み合わさって総体(ボディ)としての郵便制度を作っている。その郵便制度を前提として始めてハガキに書くということが意味をもってくるんであって、そういうものがなければ、ハガキはただの紙です。ハガキそのものをいくら顕微鏡でみても、ハガキのハガキたるゆえんは解りませんね。紙がハガキになるのはそれが郵便制度の一環――郵便制度というボディの一つの部分――としてある限りです。かりに郵便ストでもつづいて郵便がまひすると、ポストはただの屑かごになりましょう。実際は郵便だって孤立的にあるんじゃない。例えば鉄道がストップすると郵便もストップする。郵便とか鉄道とか新聞とかいったいろいろの Wesen(Body)が分ちがたくからみ合って一つの Wesen(Body)になっている、それが人間の社会であります。ミリガンも大いに使ったと思われるミュレット・ザンデルの独英辞書でみると、Wesen は Body であり、dasgmeine Wesen は the Common wealth, common weal だと書いてあります。いろいろの動物がいますが、こういうボディとしての政治体を作ってそのなかで生きているのは人間だけです。もっとも人々が参加によって意識的にボディとしての政治体を作るという伝統は、日本には少ない。
(30〜32頁)


かの先生方は、一体何と格闘していたのか、何を求めようとしていたのか。
とりあえず、そこから学ばなければならない。
私が本来取り組もうとしてきた本筋からは多少ずれる危険もあるが、とりあえず「彼ら」をしっかり睨み得る明確な像として結ばなければ、空回りになりかねない。もちろん反対側で喚いたり愚痴ったりしている人々についても同様だろう。両睨み。


社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)