自由と民主主義を諦める


2006/04/12(水) 18:57:24 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-210.html

民主主義=多数決という考え方ほど安易なものはない、という批判ほど安易なものはない。民主主義の根元にあるものがよく解っていないか、あるいは意図的に無視している。


人民主権が多数者主権に過ぎない、という論点はもう言い飽きたのでこれ以上言わない。それとは別の要素、政治的平等であるとか、個人の不可侵の権利とかでもいいが、それらは算術の構成要素に過ぎない。


個人は神聖不可侵の自然権を持っている、人間としての尊厳がある。だから自分のことは自分で決めるべきだ。でも各人の意見が対立する時があって、各人の権利はそれぞれ尊重されるべきであるので、賛成が多い方を決定としよう、と。


本当に個人の権利やら尊厳やらが神聖不可侵ならば、多数になることで神聖さが足し算されるはずもなく、1対1でも1対1億でも優劣はつけられないはずだ。でも、つけちゃおう。それを正当化する理念が民主主義。違う?。


もちろん、民主主義だけが悪者じゃない。足し算に簡単に屈するような個人の権利やら尊厳やらも共犯だろう。近代的な「個人主義」が与えてくれるものなんて、そんなもんだ。お気づきの通り、「個人主義」の「個人」は理念としての、概念としての、抽象的な「個人」さんである。生の、現実の個人=個体を指してはいない。権利や尊厳がくっついているのも、この「個人」。だから頭越しに算術ができる。この「人間なるもの」、め。


だから、汚れなき普遍的価値として漠然とした定義の「民主主義」様を崇め奉った上で、現存するものは「民主主義」じゃない、とか言うのは勘弁して欲しい。民主主義はその理念においても中核に多数決原理を抱える、ということをきちんと了解した上でコミットするならば、一貫した民主主義者と言えると思うのだが。もちろん、私の考える民主主義は多数決原理ではない、という明確な言明・定義の後のコミットも有り得るとは思う。論証可能性は別にして。あ、あと純粋な利益政治・妥協・取引でさえ嫌う潔癖主義者も勘弁して欲しいなぁ。


自由についても結構同じことが言えて、何時でも何処でも誰でもが自由を望んでいるわけではないでしょうよ。もちろん、従属するか自律するか、不自由になるか自由になるか、それを選択できるメタ的な自由が不可欠なんだ、と言われれば私もうなずく。そこから即、活発な政治参加を求める言説に接続するのはいささか飛躍があるような気がするが、メタ自由が重要である点では同意できる。


でも、メタ自由は自由と呼ばれるに適当なものなのだろうか。まず浮かぶ疑問は、自由になるか不自由になるかを選択するような、それ程明確な場・時点があるだろうか、ということ。もしあったとしても、その選択は憲法なんかと同様に、何故いつまでも自分を縛り続けるのか、という問題にぶつからざるを得ない。真にメタ自由が確保される為には、常に選択が変更できる、新たな選択ができることが必要とされるが、これは一種ユートピア的である。常に参入離脱が自在であるような状態とは、それこそまさに「自由」そのものではないか?。しかも、完全な意味でのそれ。


ここまで来ると、わざわざメタ自由なんて言葉を作る必要があるのか疑問になってくる。もちろん、ここまで突き詰める必要はないのかもしれない。とりあえずメタ自由のレベルを設定しておいて、あとは憲法同様、プリコミットメント論なり何なりでどうにか切り抜けつつやっていけば、いいのかも。でも、少なくとも突き詰めて考える限りでは、メタ自由も結局一次的な自由と同じレベルに差し戻されていく気配が濃厚なので、そこから帰結される主張は大きく分けると二つしかない(ように思われる)。やっぱり自由サイコー、何が何でも自由を守れ、というやつと、自由を諦めろ、というやつだ。


私がどっちに属するかは言わずもがな。書きながら、「自己性」というやつはメタ自由とも違うものだな、と確認できた。宮台が言うような、オブセッシブでないという意味での自由はどうかな。もしかしたら言葉の違いに還元されるのかも。まぁ、自己性だけで十分だとも思えないけどもね、最近の私は。メタ自由への疑問は一部、自己性にも当てはまると思うし。