経験と継承、あるいは不継承


8月15日という日付には、何の意味も無い。ただ、何か書きたかった。多分ずっと。


黙祷と吐き気」(2006年8月6日)

神話が暴かれた後に何をすべきか」(2006年10月29日)


もう3年の間、書いていなかったのかな。いや、知っていた。確かに書かなかった。書くことが無かった。

思いを巡らしてみても、考えは何も進まない。その繰り返しでは、書くべくもない。


書くことは、今も無い。ただ、最近こういう記事を見た。

米有権者の61%「原爆投下は正しかった」


 【ワシントン=黒瀬悦成】米キニピアック大学(コネティカット州)の世論調査研究所は4日、米国による64年前の広島と長崎への原爆投下について、米国の有権者の61%が「正しい行為だった」と回答したとする全国世論調査の結果を発表した。

 「間違いだった」は22%で、米国人の圧倒的多数が原爆投下を支持していることがわかった。

 年齢別で原爆投下に対する支持が最も高かったのは55歳以上で、73%が「正しかった」と回答。一方、35〜54歳の支持率は60%、18〜34歳では50%に低下した。同研究所のピーター・ブラウン副部長は、「第2次世界大戦の惨禍を記憶している人は、トルーマン大統領(当時)の原爆投下の決断を圧倒的に支持している」とする一方で、「第2次大戦や冷戦を知らない世代ほど、原爆投下を支持しない傾向が強い」と指摘した。

 党派別では、共和党員の74%が支持したのに対し、トルーマン大統領と同じ民主党員の支持は49%(不支持29%)にとどまった。

 調査は7月27日〜8月3日にかけて、全米の有権者2409人を対象に実施された。


(2009年8月5日10時48分 読売新聞)


元の調査報告はここにある。目が留まるのは、「第2次世界大戦の惨禍を記憶している人は、トルーマン大統領(当時)の原爆投下の決断を圧倒的に支持している」、というところだ。「第2次大戦や冷戦を知らない世代ほど、原爆投下を支持しない傾向が強い」、という箇所である。

忘れることが、知らないことが、可能にすることは、確かにある。それを「皮肉」と呼ぶのか呼ばないのかは自由だ。忘れないということが、知っているということが、あるいは受け継ぐということが、いつでも正しいのか――いや望ましいのか――は、分かることではない。

記憶や経験を解ることはできるのか。ムリだ。経験を受け継ぐことはできるのか。難しい。経験は受け継ぐべきなのか。知らない。

何もしなくても、私たちはそれなりに受け継いでいくし、それなりに忘れていく。それ以上何かすべきなのかは、なおさら分からない。何にせよ生きていくのは私たちだし、当事者は私たちなのだから、要するに何をしたいのか、だろう。何を受け継ぎたいのか、だけだ。

自ら望んで意志することが、誰かの意志の継承になるのなら、よいことだと思う。けれども、「継承」と称して、特定の規範に自分や他人を縛り付けようとすることは、愚かしい。まして特定の経験を一般化し、陳腐化して束縛に供するのは、輪をかけて愚劣だ。


「戦争体験」の、あるいは「被爆体験」についての語りの少なくない部分は、そうした愚劣な行為の反復として在りはしなかっただろうか。犯罪被害者遺族が厳罰化や死刑への支持を叫ぶのに対し、被害者の姿は一様ではないとして異なる声を拾おうとする人々は、同時に戦争体験世代の描かれ方について省みたことがあっただろうか。被爆者がその体験を「盾に」核廃絶を求める姿は、犯罪被害者遺族がその体験を「盾に」死刑を擁護する姿と、どこか違っているだろうか。

もちろん、その姿が間違っているわけでも、愚かなわけでもない。その「盾」の後ろに臆面も無く立てることが、そうなのだ。私たちを口ごもらせるその「盾」は、事実と感情で出来ている。死刑を廃そうとする者が論理をその武器とするように、被爆の「盾」の向こうにも、それなりの論理が在る。論理だけでは人の営みは立ち行かない。さりとて、感情ばかりを拠り所にしているわけにもいかない。

そういうことが、「盾」を持つ人がいなくなった後で何をしていくかを考えるにあたって、前提にしておくべきことなのだろう。そんな些細なことしか、私には書けない。