暴力の定義について


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091008/p1


「文化的暴力」というのは概念的には半端で、無くてもいいものだと思う。政治的には重要なんだろうが。

それにしても、「暴力」の語に反発を覚える人は多い。以下はまず、ご参考までに。


暴力とは何か」(2008年6月15日)


この記事で引用されている箇所の前段も少し長めに引いておく。


 それでは、再び「暴力violence」についての議論に戻ろう。管見の限り、暴力概念についての厳密かつ独立した定義として検討に値するのは、ほとんどJ.ガルトゥングによる定義しかない。ガルトゥングによれば、暴力とは、「可能性と現実の間、すなわち、可能であったことと今ある状態との間の差異を生じさせた原因」である。すなわち、「暴力が存在するのは、人々が実際に肉体的・精神的に実現したものが、彼らが潜在的に実現し得たものより低水準になるような形で、彼らに影響が及ぼされている場合である」。彼は、このように独自に定義された暴力概念を用いることによって、特定の主体によって担われる直接的な暴力の考察に留まらず、資源分配の極端な不平等や飢餓など、直接には誰も他者に対して危害を加えていないような状況においても、「構造の中に組み込まれた」暴力の存在を見出すことを可能にしたのである。


 ここで潜在的に実現可能であるとされることは、置かれている状況によって異なる。18世紀には結核で死亡することは避け難いことであったために暴力とは見做し難かったが、医学の発達した現代において結核で死亡するならば、それは暴力が介在した結果であると言える。潜在的に実現可能であることの水準は、「見識と資源についての所与の水準」によって定まるのである。


 ガルトゥングのように暴力を定義するなら、暴力の存在は専ら結果に着目して認識されることになる。Aが、たとえ全身の力を込めてBを殴打したとしても、Bが全く痛みを感じず、肉体への悪影響が何ら存在しないのであれば、Aの行為は暴力ではなかったことになる。これは一見、直観に反するように思える。形式において暴力的に見える行為は、実質的内容を伴わなくても暴力と見做すべきなのではないか。


 だが、権力行使にも成功と失敗があるように、暴力行使にも成否が存在すると考えれば、それほど不自然な定義とは言えない。意図された暴力も、機能面において暴力としての要件を満たさないことが有り得る。逆に、主観的には優しくさすったり、軽くつまんだりしただけのつもりであった行為が、相手にとっては激しい痛みを伴うことが有り得るように、暴力の経験も被行使者の主観に依存するところが大きい。暴力の存在を認識するためには、権力同様、行使者の意図にだけ着目するべきではないのである。


 そして、暴力の存在が主観的・個人的な基準に依拠せざるを得ないという事実が、暴力の意味範囲を画定するにあたっての困難を呼び込む。私たちが潜在的に実現を望む可能な状態は無数に存在するから、暴力が見出され得る事象の範囲は無限に拡がり得る。これに対して、ガルトゥングは、最終的には実現されるべき価値としてかなりの程度の合意が得られるか否かによって暴力と見做すべき範囲を画定するしかないと述べて、暴力の意味範囲を規範的に限定しようとする。この場合例えば、ある社会における識字率の水準が潜在的に実現可能である水準を下回っていることには暴力が介在していると見做せるが、同じ社会におけるキリスト教徒の割合が潜在的に実現可能である水準を下回っていても、暴力が問題とされることはないことになる。


 しかしこれでは、何が暴力であるかは当該社会において支配的である価値観に従って決定されてしまう。夫が死亡したら妻は後を追って自殺するべきであるという規範が支配的である社会においては、夫の死後も生き続けることは妻にとって実現を望むべきことではないと見做されているために、妻が自殺せざるを得ないことは、暴力とは見做されない可能性がある。それは、当該社会における少なからぬ女性にとって、納得しかねることであろう。暴力の意味範囲が、彼女たちが夫の死後も生きられるか否かという事実(実現可能性の水準)にかかわる基準によってではなく、夫の死後も生き続けるべきか否かという規範(実現を目指すべき範囲)にかかわる基準によって定められたために、彼女たちがさらされている脅威は暴力ではなくなったのだから。


 確かに、道徳的な非難の対象とすべき暴力の範囲は社会的に決定されてしかるべきであろうが、記述的な意味での暴力の範囲は、やはり個々の主観に依拠して決定されるしかない。何が実現可能なものであるのかという認識を完全に主観に委ねてしまえば、暴力の範囲は無限に拡がり得るが、しかしそれは、ガルトゥングの定義が必然的に伴わなければならない帰結なのである。実現が望まれることは人それぞれ無限に有り得る以上、可能性が現実になることを阻害する要因であれば、いかなるものであっても暴力と呼ばれることを拒絶することはできない。キリスト教に改宗する人々の割合が有り得た水準よりも下回っているという事実そのものから、著しい暴力的効果を体験する人もいるのかもしれない。彼に対して、そんなものは暴力ではないと言う事は、皮膚を軽くさすられただけで激しい痛みを訴える人に対して、この程度では暴力とは言えないと強弁することと何も変わらない。それは、暴力の定義可能性を簒奪するという暴力なのである。


『利害関係理論の基礎』、61‐63頁。注・傍点は略。)


この後にフーコー批判(物理的暴力と心理的暴力の問題にも関連)が続き、前に引用した定義部分に落ち着く。


構造的暴力と平和 (中央大学現代政治学双書)

構造的暴力と平和 (中央大学現代政治学双書)