個体的「所有意識」の発生


2006/06/17(土) 18:33:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-239.html

以前、所有については最近ご無沙汰だと書いたが、全くやっていないかと言うとそうでもない。別に所有だけが目的じゃないが、4月から細々と民法(総則、物権)の勉強もしている。学部レベルの基礎を、しかも部分的に眺めているだけだが、なかなか興味深いことも色々ある。


加藤雅信『「所有権」の誕生』はこれから読むが、その内容をかいつまんで説明している加藤雅信『新民法大系Ⅱ 物権法』第14章「権利の発生」は読んだ。要するに、農耕社会・遊牧社会・狩猟採集社会に関わらず、食料生産極大化の社会的要請から資本投下の対象に対する資本投下者の所有権が観念される、ということであり、非常に参考になった。参考になったがしかし、これはあくまでも社会的に見た所有権概念発生についての話であって、個体的にはどうなのかな、という疑問は別にある。


と言うのはつまり、個体における所有権意識というのはどのようにして、また何を根拠にして発生しているのか、ということだ。例えば、板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』には興味深い例がある。


 最初は、決まったボウルで決まった個体に餌をやる訓練である(略)。アイとアキラは同じ部屋に、ドウドウは隣の部屋にいたが、檻越しにお互いの姿を見ることができた。アイにはいつも緑色のボウルで、アキラにはいつも赤色のボウル、そしてオランウータンのドウドウには黄色のボウルで餌をやった。(中略)
 さて、前述の訓練では、アイの餌要求反応は次第に落ち着いてきたように見えた。そこで、今度はボウルを替えて餌やりテストを試みてみた。すなわち、アイには黄色と赤色のボウルで、アキラには黄色と緑色のボウルで、ドウドウには赤色と緑色のボウルで餌を与えたのである。アイが黄色や赤色のボウルで餌を貰うときには、当然自分が貰うのであるから別に特別な反応は見せない。いつも通り餌を素直に貰って食べた。ドウドウが赤いボウルで餌を貰ったときのアイの反応も特に変わったところはなかったが、緑色のボウルで貰ったときには、アイは実験者の後を檻越しについて来た。前述した餌要求反応である。
 ところが黄色いボウルでアキラに餌をやったときは、アイは何とアキラに対してキッと歯を剥いて怒った。そして最も顕著な反応が見られたのは、緑色のボウルでアキラに餌をやったときである。アイはアキラに対して非常に激しい怒りを示した。大声をあげながらアキラを追いかけ回したのである。(中略)
 アイは、いつも自分が餌を貰っていた緑色のボウルでアキラが餌を貰うと怒った。まるで緑色のボウルは自分のものだと言わんばかりである。ドウドウが緑色のボウルで餌をもらっても怒らずに実験者への追従反応に止まったのは、怒りをぶつける直接的な相手がいなかったからだろう。ドウドウは、隣の部屋にいたし、実験者の僕に対して怒るわけにもいかない。このテストでは、アイの頭の中には緑色のボウルに対して何か特別なものがありそうだということがわかったのである。[85-88頁]


念のため言っておくが、(ドウドウ以外は)チンパンジーの話である。チンパンジーにも「所有意識」はあるようだ。「所有意識」とはここでは「ある対象を私(他者)のものとする意識」のことであるとされる(82頁)。だが、その意識が「所有権意識」なのかどうかはわからない。板倉は「所有意識」と「所有権意識」の区別などはしていないが、所有に関して述べるのであればこうした細分化が必要だ。板倉は「所有意識」を「物事に対する自分の占有権を主張するだけではなく、他者に対してもその占有権を認めること」が含まれるような、「対象それ自体についての意識であるというより、対象を介した自己や他者に対する意識である」と説明するのだが(同)、そういう意識ならむしろ「所有権意識」と言った方がよい(細かく言えば、ここで「占有権」という語を用いているのも気持ち悪いが心理学の本なので仕方ない)。


チンパンジーに「所有権意識」があるかどうか、つまり彼らが他者の所有権を尊重するのかどうかはまだ明らかでないとされる。板倉が意識しているかどうか知らないが、これも単純な話ではなく、「所有権意識」があること(「所有権」を知っていること)とそれに従うこと(他者の「所有権」を尊重すること)とは別問題である。「所有権意識」を持つとされるヒトの場合でも、実際に「所有権」という規範を内面化しているかどうかは疑う余地が十分にある。われわれが他者の所有権を尊重するのは、基本的に物理的強制力による結果ではないのか、と。もしくは社会的規範圧力、道徳的規律訓練の賜物ではないのか、と。「所有権」はあくまで構築された概念だから、これは当然と言えば当然である。しかし、われわれには「所有権」以前に何か「所有」という感覚、正当なそれ、正当な占有という感覚があるようにも思える。物理的強制や道徳的規律訓練が未だほとんどなされていない状態において、われわれはその意識をどのようにして、また何を根拠にして感じているのだろうか。


 それでは、ヒトでは所有意識はどのように発達するのであろうか。その初期過程はどのようなものであろうか。僕にも二人の子供がいるので、経験的にはおもちゃの所有権らしきものを主張して争うのをたびたび観察する。彼らがまだ幼かったとき、お互いのおもちゃを勝手に使って遊んでいると、おもちゃを使われているほうはすごく怒るし、使っているほうは、すぐにその所有権を放棄して逃げ出す。こうした行動を観察していると、何となく、所有意識やその所有権らしきものが認められるような気がする。
 行動として所有を捉えるには、難しい点もあるだろうが、言語的な表現の発達を観察すると、その一端がうかがえる。たとえば、幼児が父親のカバンを見て「パパ」と言ったりする場合には、当然ながら、そのカバン自体をパパと呼んでいるのではない。その物と所有者の関係を、子供が意識として持っていることを示すことだと解釈できる。それこそが、子どもによる、所有物と所有者の関係の基本的な理解であり、習慣的な所有の言語表現なのである。[82-83頁]


後の段落については比較的述べ易いように思う。幼児が父親のカバンを指して「パパ」と言うことができるのは、父親とカバンとの密接な関係が念頭にあるからであって、所有権への意識からではない。このような場合、幼児は父親が実際には所有権を有していない物に関しても、父親との関係が想起されれば「パパ」と言い得るだろう。したがって、この現象は必ずしも所有の文脈で捉えることが適切とは言えないし、所有の文脈で捉えるなら少なくとも事実的な占有が介在していない場合は考えにくい(から所有というより占有と結び付けて考えた方がよい)のではないか。


前の段落にある子どもの「所有意識」もしくは「所有権意識」についてはなかなか断言しにくい。確かに子どもでも、あるいは子どもほど、対象に対して「僕の」「私の」を強調する。それはなんだろう、大人よりも所有秩序が流動化しやすい(?)ことへの警戒心の現れなのだろうか。あるいは子ども特有の自己顕示欲か。他方で、使っていないんだからいいだろ、誰がお前の物だって決めたんだ、というようなこともよく聞く(これは大人でも)。ある個体が、自己や他者のある対象に対する所有(占有)を正当であると感じることは、確かに強制や規律以前に有り得る。ただし、その感覚は必ずしもいわゆる「所有権」に基づくものではない。功績なのか、慣行なのか、占有なのか、その他の既得権・既成事実なのか、はたまた必要なのか、その根拠は一様でないが、個体が「所有権」に拠らずに「正当な所有」を主張したり承認したりすることは有り得る。そのあたりをもう少し探ってみたいところだ。


こういう点を、例えば森村進なら「われわれの道徳的直観」の一言で済ませてしまうわけだが、それじゃあんまりである。社会的な見地については人類学の知見が役に立つだろうが、個体的な意識については認知心理学発達心理学に研究成果があるのだろうか。「社会の心理学化」に抗して(?)、私はこうした分野についての本を全く読んでおらず非常に疎いので、ご教示を大歓迎する。是非教えて下さい。ただ、新書とはいえ板倉のこの本はわりと最新の研究成果が盛り込まれているらしいので、個体の所有意識についても本格的な研究はこれからという可能性が高そうだが…。


参考:所有の実体と占有の実態(随分昔のですが…。文体や用語についてはともかく、言っていることはさほど成長していないので)


「所有権」の誕生

「所有権」の誕生

物権法 (新民法大系)

物権法 (新民法大系)

「私」はいつ生まれるか (ちくま新書)

「私」はいつ生まれるか (ちくま新書)

TB


所有論ノート―道徳的感覚の視点から http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070113/p1