民主主義の練習問題(1)財政民主主義


2006/12/07(木) 21:51:35 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-303.html

道路特定財源一般財源化するかどうかについて、政治的綱引きが行われている(もう終わったかも)。


相互に対立している主な立場は三つあるとされている。一つ目は道路特定財源が余っているのだから一般財源化せよ、というもの。二つ目は余っているのなら減税せよ、というもの。三つ目は余るも何もまだ道路は必要なんだから使ってしまえ、というもの。このうち後の二つは、一つ目の立場を批判するために、「納税者の理解が得られない」という言い方をよく持ち出している。


ここでの納税者とは、道路特定財源になるガソリン税などを払っている道路利用者を指している。二つ目の立場と三つ目の立場が口を揃えて言うには、ガソリン税などは道路を作る目的で道路利用者に負担してもらっているのだから、それを一般化するのは筋が違う、ということだ。


この立場を理論的に裏付ける根拠がある。財政民主主義という考え方だ。これは主に憲法学や租税法学で用いられる言葉であり、簡単に言えば、「納税者は自らが払った税金がどのように使われるのかについてコントロールする権利を持つべきである」という考え方である。実際的には国民の代表機関たる国会で予算等がチェックされなければならないということであるが、よりラディカルには納税者が財政過程を監視したり財政過程に参加したりすることが可能であるべきだ、という立場に繋がるだろう。ただし、財政民主主義を徹底しようとすると、税金を払っていない者は政治過程に参与する権利を持つべきでないという主張や、あるいは納税額の大小によって政治的影響力を差別化するべきである(制限選挙等)という主張さえ導かれる危険がある。


さて、減税するか道路をつくるかはともかく、一般財源化に反対する側の論拠はともに「納税者の理解が得られない」であり、理論的には財政民主主義の立場からの反対と言ってよいだろう。道路特定財源は道路利用者が払った税であるから、それをそのまま一般財源横流しすることは財政民主主義に反する、というわけだ。


だが、一つ注意すべきなのは、道路利用者は個人だけではなく、諸々の物流や交通機関なども日常的に道路を使っているということである。したがって、個人的には道路を利用しない人々も、税コストの価格への転嫁という形で道路関係の税を間接的に負担していると考えることができる。実際、こうした見方に基づいて一般財源化を正当化する主張はしばしばなされているようだ。


個人的には道路を利用しない人も間接的には道路特定財源を負担しているとすれば、一般財源化に反対する論拠に「納税者の理解」を持ち出すのはいささか苦しくなる。ただし、これもまた注意しなくてはいけないのは、個人的に道路を利用する人々だって物流や交通機関を利用することで間接的に税を負担している、ということだ。つまり、個人的に道路を利用しない人々も税を負担しているとはいえ、個人的に道路を利用する人々はその上に重ねて負担をしており、二重の税コストを払っているのである。


このような状況は財政民主主義の観点から見てどう考えられるのか。まず、個人的道路利用者もそうでない人々も一定の税負担をしている以上、どちらも道路特定財源における財政過程に関わる権利を主張可能であることは間違いない。それゆえ、ここで焦点になるのは、より大きなコストを払っている前者の権利を後者の権利よりも重大であると考えるべきか否か、という点である。財政民主主義という言葉の元々の含意からはそこまで導くのは難しいかもしれないが、それが納税者によるコントロールという点を極めて重視する立場である以上、どちらかと言えば「負担の大きな者に大きな権利を」という側に傾きやすそうではある。


より大きなコストを払っている者がそれに応じた政治的影響力を認められるべきだ、という考え方はそれ自体として至って自然なものである。だが、先に述べたとおり、この考え方を徹底するならば、納税額の大小によって政治的権利の差別化が行われることが正当化されてしまいそうである(実際一部の国際機関では拠出金に応じて国毎の持ち票を差別化している)。それは政治的平等に反すると考える人もいるだろうが、そうではない。ここでは何が平等であるかどうかが争われており、負担の大小に応じて政治的権利の承認範囲を操作するべきだという立場もまた一人一票とは異なる政治的平等を目指しているのである。


では、納税額に応じて政治的権利を差別化すべきだという主張に対して直ちに正当性を認めるべきなのであろうか。必ずしもそうではない。納税額の大小は一つの負担基準であり、利害関係の基準であるが、別に納税額という利害関係だけを殊更重視する理由は無いからである。つまり、財政民主主義はいいが、それだけに拘泥する必要は無いということだ。道路特定財源が一般化されれば道路利用者の負担は軽減されないかもしれないが、その分が社会保障費などに回されることによって負担が軽減される人々がいるだろう(実際のところはよく知らないので推測だが)。道路特定財源の問題だからといってその利害関係者が道路利用者と道路関係団体・地方自治体などだけとは限らない。一般財源化によって利益を享受しうる人々も利害関係者である。したがって、利害関係に応じて政治的権利を差別化すべきであるという立場を採ったとしても、別に道路利用者その他だけの意見を重視する理由は無い。それ以外の多様な利害関係が有り得るからである。


このことは実は、財政民主主義にそれが本来持つべき広い意味を取り戻すことに繋がる。国家の財政は本来一体的に考えるべきであり、道路特定財源に関する問題であるからといって、道路利用者その他だけを利害関係者と考えるべきではない。既に存在する権益および負担と、未来に有り得る権益および負担を広く考慮することによって、多様な利害関係者を政治過程(財政過程)に関与させ、そのニーズなどを突き合わせる中で政治的合意を得なければならない。納税額に応じて政治的権利を差別化しようとする立場は納税者民主主義と呼ぶべきであって、本来あるべき意味での財政民主主義とイコールと考えられるべきではない。財政民主主義とは本来、税負担という単一の利害関係に還元されない多様なニーズや負担への考慮に基づく利害関係者民主主義を意味するべきなのである。


参考文献:北野弘久『納税者の権利』(岩波新書、1981年)


納税者の権利 (岩波新書)

納税者の権利 (岩波新書)