リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来
今日は少し、色々な文脈を縫い合わせるようなお話をしてみたいと思います。例によって長いですが、ご関心の向きはしばしお付き合い下さい。
1.立場で争うことの不毛
あなたは、目指している方向性や考えそのものは大して違わないのに、感情的対立や形式的な事柄(手続き、名称、身分、肩書き、…)に発する食い違いなどのため、相手との合意に結び付かない、といった経験をしたこと(あるいは見聞きしたこと)は無いでしょうか。友人や恋人との間で、家庭で、学校で、職場で、地域で、複数の人が何らかの関係を取り結んで事にあたろうとする場面において、これは往々にして発生する事態であると思います。「合意など必要無い」と独力で目的を達成できる人であれば問題ありませんが、多くの人にとっては、広く合意を取り付けておくに越したことはありません。
円滑な合意形成を図るにはどうしたらよいか。この点について研究を行っている交渉学では、「立場」と「利害」を区別することが合意への近道だと説きます*1。ここで言う「立場」とは、自分や相手の「言い分」です。対して「利害」とは、主張される「言い分」を通すことによって何を得たいのか、得ようとしているのかという「本音」であり、「ニーズ」です。例えば、友人と旅行先を相談している時に、自分は沖縄を主張し、友人が北海道を主張して意見が対立したとします。この時に対立して提出された候補地が「立場」であり、仮に友人が泳げないことを理由に沖縄行きを渋っているのだとすれば、それが「立場」の背後にある「利害」になります。
交渉学では、表向き主張される「立場」に注目するよりも、実質的な「利害」を満足させるようなアプローチを採ることで、合意形成や問題解決の可能性が高まると考えます。つまり、このケースでは友人が北海道案を擁護して並び立てる様々な弁論をいちいち論破して沖縄案の優位性を証明するよりも、相手が沖縄を避ける理由を突き止め、その「利害」に配慮して、海に入らなくても沖縄を満喫できるプランをプレゼンすることが最も賢明な策であるということです。これは、自らの言い分を通しつつ相手の実質的な利益も実現する、win-winの結果を両者にもたらすという意味で、理想的なアプローチではないでしょうか。
市民参加はなぜ必要なのか?
「立場」ではなく「利害」に着目することの重要性は、有効な政治的決定のために一定の市民参加が必須である理由を説明できます。行政が主導して立案・履行される政策は、しばしば議会に上程された後、あるいは法規となって公布・施行される段になってから市民に知られるようになり、反対の声を集めていって衝突が拡大するケースが見られます。その場合、反対という「立場」の背後に存在している「利害」は一様ではありません。純粋に政策の内容そのものに反対である人が主であるとしても、中には政策決定のプロセスなど、むしろ形式面での不満を政策への反対という「立場」によって表明している人もいるでしょう。そこでは、政策への賛否という「立場」を設定に政策の内容以外に関する「利害」が持ち込まれていることになります。
政策プロセスを設計する観点に立つなら、これは明らかに設計ミスであると言えます。プロセスへの参加に関する「利害」――「私たちの声も聞いて欲しい」――への配慮が不十分であったために、「自分たちの知らないところで勝手に決められた」との感情を引き起こし、合意形成への障害を大きくしてしまっているからです。民主的な決定手続きが決定内容の「正しさ」を担保するかはともかく、人は自らが参加した感覚が強い程、その決定に納得しやすくなります*2。したがって、利害関係が希薄でない範囲には予め周知し、何らかの形で決定過程に包摂することで形式面での「利害」をケアし、合意形成の障害となるような「立場」設定を可能な限りコントロールすることが、賢明なマネジメントということになります。とかく効率的でスピーディーな決定が持ち上げられがちな昨今ですが、決定された内容を実現していく際のコストや能率まで考慮に入れると、決定過程を可能な限り開き、広い範囲を巻き込んでいく方が、結果として有効性の高い決定を得られることが多いのです。
「治安は悪化していない」の限界性
同様に「立場」と「利害」を区別することで、統計を根拠にした治安悪化説批判の実りの少なさを構造化して説明することが可能になります。構造化と言っても中身は簡単な話で、要は「理詰めで相手を言い負かしても、感情的反発を招くだけで逆効果になることが多い」という(みなさんもしばしば見聞きするであろう)経験的事実と一致するものです。
統計を根拠にして、「(少年)犯罪は増えていない」「(少年)犯罪は凶悪化していない」「(少年)犯罪の質は大して変わっていない」といった治安悪化否定説を唱えることは、確かに「正しい」言明です。しかし、これはあくまでも「治安が悪化している」という「立場」を論駁するものであり、それ以上ではありません。統計上「治安は悪化していない」ことを論証しても、治安悪化説の背後にある「利害」または「ニーズ」、つまり「漠然とした不安」への対応としての機能を果たすことにはならないので、有効な解決とまでは至らないのです。かくして、治安悪化説批判は、「体感治安」悪化説によって受け流されます*3。
治安悪化否定論者が治安悪化説の論破という「立場」的な勝利そのものを目的とせず、より重要な「利害」――例えば治安対策に向けられている政治/経済/社会的資源を別方面に投下すること――を持つのであれば、相手の「立場」の背後にある「利害」――「漠然とした不安」への応答ニーズ――を満足させられるような解決策を提示しなければなりません*4。ここでも問題解決の鍵は、「対決から合意へ」の意識転換である、ということになります。
何が社会の問題なのか
なお、ここで相手の「利害」、すなわち「漠然とした不安」をどうにかして欲しいというニーズや、どうにかするべきだといった問題意識そのものを、端的な「間違い」として退けることは、リベラルな――という言葉に抵抗があれば近代立憲主義に即した――社会の前提である価値多元主義に反します。J.S.ミルは近代的な自由の観念を「他人に不利益を与えない(かまたは本人にとって極めて重大な不利益をもたらさない)限り、第三者から見ていかに愚かに思えることであっても、本人がしたいように振る舞うことを外的に妨げられない」ものとして定式化しました(危害原理)。
人々が抱く「利害」はこうした自由に属する問題であって、社会的非難を浴びるべき対象ではありません。つまり、統計上犯罪が増えていないにもかかわらず治安に不安を抱くことが愚かな行為であるか否かは、(少なくとも)私たちの社会にとっての関心事ではないはずです。それは、十字架に祈ったり仏像を拝んだりすることが、それが愚かな行為であるかどうかについての社会的議論を伴うことなく、各人の信条によって個々自由に行われているのと同じことです。
価値多元主義を前提とする私たちの社会で社会的議論の対象になるのは、個々の「利害」そのものが妥当なものであるかどうかではなく、様々な「利害」の内でどれが社会的に対処すべき問題として把握・対処すべきであるのか、ということに限られます。すなわち、多様な「利害」の政治的イシューとしての序列付けと、その際の公共的リーズニング(理由付け/推論)だけが争われるのです。この点は、後で再び立ち返ることになる重要なポイントです。
2.ナイーブな実証主義の問題点
残念ながら、いわゆる「ニセ科学」や「俗流若者論」などの「トンデモ」論への批判論の(全てではないにせよ)少なくない部分にも、「立場」と「利害」の区別への無理解が見受けられます*5。エビデンスを重視して議論を進めようとする姿勢そのものは良いのですが、実験科学ないし計量科学的な「実証性」の多寡を比較することによって(のみ)異なる「立場」の優劣を判断しがちな風潮が強いことには問題があります。そもそも私の考えでは、科学とは実験や計量によってのみ成り立つものではありません*6。
しかし、ひとまずその点については措くとしても、「実証性」ばかりを秤にかけて議論を決しようとするのは、「立場」に固着して「利害」を無視する不毛な対決主義の典型であり、相手の問題意識に付き合うことを始めから拒否した外在的批判として、あまり望ましいものではありません*7。「真実」の共同探究としての科学は、誰かが勝って誰かが負けるゼロサム的な勝負ではなく、全体を前進させるようなwin-winの合意を志向するものです。ここから、「科学的」であることを標榜しがちな対決主義的「トンデモ」批判論の二重の非科学的傾向を指摘することができます。
科学を標榜する政治運動
(1)まず、実証が乏しいものは考慮に値しないとして、「利害」もろとも「立場」を否定しがちな点です。科学とは世界理解の一手段ですから、基本的に全て推論です。実証は推論の確かさを担保する作業であり、仮説と根拠を結び付ける推論を伴います。実証性の程度を判断する基準は一様ではありませんから、実験科学/計量科学的な実証性に限定された判断は妥当とは言えない場合があります。また、そもそもいかなる基準においても実証性が乏しいと判断されるような推論であっても、「真実」の共同探究に資するかもしれない可能的推論の一つではあります。したがって、実証性の程度だけを以て推論の価値を判断することは科学の目的合理性に反する、非科学的な態度です。現段階では実証性が皆無でも、真剣な考慮に値する興味深い推論というものは、どの分野でも存在するでしょう。その着想を奪うなら、科学に未来などありません。
(2)次に、「トンデモ」批判論においては、実証性が乏しい推論は有害であるとして「トンデモ」論に社会的な悪影響を帰責する傾向が見受けられます。しかしこれは、批判対象とする「トンデモ」がどのようなプロセスによってどの程度の悪影響を社会に及ぼしたのかについての実証的な研究結果が添付されない限り、批判者が用いる論理の自己適用によって非科学的な推論に留まるでしょう。
さて、ここで注目すべきなのは、少なくない「トンデモ」批判論においては、科学の本旨に反して、異なる「立場」を架橋するためどころか、むしろ「立場」同士の争いに「勝ち負け」をつけるためにこそ「実証性」の基準が持ち込まれているように見える点です。そして、この基準は全方位的に適用されるわけではなく、論者が対立する「立場」を攻撃することを主目的として用いられます。ここには、「科学的知見への敬意を」というタテマエ的「立場」の裏に潜む、「気に入らない奴らを一掃する武器が欲しい」という昏い欲望=「利害」を見ないわけにはいかないでしょう。率直に言えば、これは歴史的に繰り返されてきた科学の政治利用であり、科学と政治の混同であり、政治運動による科学の僭称です。
何が科学を政治から分かつのか
しかし、勘違いして欲しくないのですが、政治的であること自体が悪いわけではありません。それどころか、私たちはみな非政治的であることが不可能な存在であり、ただそのことに自覚的になるべきなのです。そして、自らが為したり為そうとしたりすることが政治であるのか、科学であるのか、あるいはそれ以外の何かであるのかを、事あるごとに意識しておいて欲しい。そう思います。
有志の科学者たちによる「ニセ科学」批判に代表されるように、社会が真剣に取り扱うべき問題が何であるかについて、(特に専門的知見を活かして)積極的に発言し、政治的/経済的/社会的資源の投下基準となる価値序列付けに介入していこうとすることは、よいことです。それは素朴に良いことです*8。
ただし、そこで争われているのは各々の論が科学的であるか否かではなく、社会が取り組むべきイシューとしてのプライオリティについての適正な判断でしかありません。「愚かさ」の話を思い出して下さい。社会的議論の対象になるのはあくまでも政治的な価値序列付けであり、個別の文脈における内在的価値(それ自体の価値)ではありません。
科学的知見は、序列付けを正当化する公共的理由付けの一部として用いられます。つまり、「トンデモ」をめぐる議論とは、「これに社会的コストをかけてくれ/かけてくれるな」といった働きかけを中心とする、あくまでも政治的な争いなのです。科学者たちは、この政治闘争を有利に導くため、自らの専門的知見を資源として動員しているに過ぎません。
科学の蓄積を利用することは、行為そのものの科学性を担保しません。社会的な価値序列付け、政治的イシューのプライオリティの問題を、科学性の争いと混同すべきではありません。論の科学性は、その内容や方法ではなく、目的と姿勢が担保するのです*9。
3.リスク社会とstakeholder democracy
さて、そろそろまとめにかかりましょう。私たちは今、「リスク社会」と呼ばれる状況を生きています。高度に発達し専門分化を遂げた科学技術と複雑に張り巡らされたグローバルな経済網が大小の私企業に巨大な影響力を与え、オフィシャルな政治過程は社会内部に多元化した権力を十分に制御することができないでいます。様々な「立場」から「科学的」であることを標榜する人々によって権威付けられた無数の情報が飛び交い、人々は何を信じるべきかに惑いますが、個人を制約するとともに下支えしてくれていた家族・企業・地域その他の中間集団の結合力は弱体化が昂進しています。
日々多様なリスクにさらされる個人にとって、選択や決定にあたって自明な序列付けを担保してくれるような安定的――相対的に非流動的という意味で――な価値的基盤(「大きな物語」)はもはや無く、「漠然とした不安」がポピュリズムの凝集環境を整備します。ここでは既に統一的なヘゲモニーを得ることは不可能になっており、情報流通の是正による逆転――「良いポピュリズム」――に期待することは望み薄に思われるのです*10。
このような環境では、人々の不安を手当てしながら社会を回していく枠組みが求められるのは自然でしょう*11。しかし、「漠然とした不安」を感じさせないように人々の幸福がコントロールされる「良い管理」についての肯定的な議論は、「良いポピュリズム」と同様の楽観主義に支えられてはいないでしょうか。「良い管理」の擁護者は、管理者が適正な原則に基づいて適正なシステム運営を行っているかについての評価をフィードバックするプロセスが整備されていれば、大した問題は起きないだろうと考えているようです。
しかし、フィードバックが適正に行われるかどうかは、誰/何によって担保されるのでしょうか。民主政も憲法も、初めは暴力によって基礎付けられなければなりませんし、どこか壊れて回らなくなったら、外からシステムをいじる手が必要になります。つまり、例外状態はシステム外部からの介入を必然的に招きます。介入の適正さを担保してくれる装置はありません。在り得ません。一旦回り始めたシステムが「良い管理」なのかそうでないのかは、システムの中で生きる人々には判断できず、何か大きな可能性を失うことになる…のかもしれません。これは一つの考え方です。
未来のお話はよく分からないところがあります。しかし、とりあえず今できることがあるのなら、まずそれをするべきなのではないでしょうか。リスク社会では、政治的イシューとして公共的議論の対象になるべき決定過程が、そうなっていません。ならば、まずこれら「サブ政治」をきちんと公共化=政治化し、社会内部の多元的な権力をそのまま個人と社会を結び付ける多元的な回路に変えていったらどうなのでしょう。
もとより私たちは社会内の全てのイシューに利害関心を持つわけではないですし、利害関心の程度も人それぞれに異なっています。行政的な区割りやメンバーシップと人々の利害関心の在り様も一致しているわけではありません。ならば、私たちが個々人で利害関心を持つ限られたイシュー・限られた文脈について、1人1人が利害関係者stakeholderとしてイシューごと・文脈ごとに合意形成を図り、適正な序列付けを行えるような枠組みを考えていくべきなのではないでしょうか。
少なくとも私は、私自身はそのようなstakeholder democracyの試みの方が、功利主義的に自動化された統治プログラムの構想よりも現実的で、かつ魅力的なものであると感じます。
*1:拙稿「利害関係者による討議と決定」第2章第2節を参照。交渉学については松浦正浩氏のHPを参照。
*2:これは決定の「正統性legitimacy」にかかわる経験的事実ですが、ケースに応じて「ガス抜き」的な機能が伴うことも否定できません。
*3:悪くすると、ただ相手を苛立たせるだけの結果に終わりかねません。
*4:治安悪化説の批判者の多くは、「正しい」情報流通の拡大そのものが「漠然とした不安」を低減させることを期待しているように見えます。治安悪化説批判と同時にしばしば発せられるマスメディア批判も、その期待とセットのものであると理解できるでしょう。しかし、あくまでも私企業であるマスメディアの報道姿勢は消費主体である受け手側の世界理解=物語消費欲求と相互規定関係にあるのであって、マスメディアが独立に「正しい」報道を為すことに期待するのは、そもそも無理があります。この点で、マスメディアを間接的に規定する「漠然とした不安」の背景に経済情勢の長期低迷を見る立場は、一歩進んでいると考えていいでしょう。私自身、できるだけ「正しい」情報を広く流通させると同時に、早急に経済情勢を好転させるべき、との路線には基本的に賛同しています。ただし、長期的な観点からするとそれだけで問題が解決するわけでないだろうとの認識について、簡単には「事実が必要とされない理由」、より詳細には「現代日本社会研究のための覚え書き」に書きました。後述もします。
*5:ここでも、私はこれらの批判論の主要な部分について基本的に賛同している、ということをエクスキューズ気味に付け加えておきましょう。
*6:「科学的なるものの概念」を参照。
*7:外在的な批判とは、相手の問題意識や立論の文脈を全く顧慮しないで、自分が問題だと考える点についてばかり、自分の観点から論難することです。相手からすれば自分勝手な「つまみ食い」をしていく無作法者でしかなく、その意味で「コピペ」時代の攻撃術と言えます。何かを守るために相手の誤りや偏見を突き、振りかかる火の粉を払うまでならよいのですが、それ以上に進んで相手の議論全体、その立場そのものを粉砕しようとするのなら、相手の中に一度は内在するという作業が必要不可欠です。内在とはつまり、相手の問題意識に基づいて論理構成の必然性を検証し、他なる可能性を検討し、相手が重要だと考える問いに自分だったらどういう答えを出すのか考え、何が選ばれるべきだったのか、それが選ばれなかったのはなぜか、などをあぶり出すための手続きです。少なくとも、それが科学的な意味、すなわち相手を高め、議論を共に前へ進めようとする、肯定的な意味での「批判」の作法です。相手を打ち負かそうとしてするお手軽な外在的批判は、後述するようにあくまでも政治的な批判でしかありません。もっとも、それほど手間をかけてまで内在的批判をすべき価値のある相手はそれほど多くないかもしれませんし、投下できる資源は有限なので、時と場合によって外在的批判で済ませても悪いとは思いません。ただ、その性質の違いは理解しておくべきでしょう。
*8:したがって、繰り返すように、私は「ニセ科学」批判も「俗流若者論」批判も必要な仕事だと思っており、その主要な部分に関しては明確に支持をしています。
*9:逆向きに、科学がいかにして政治的であることができるかについて、「経験科学はいかにして政治的たり得るか」も参照。
*10:「「情報戦時代」の本当の意味――ポスト・ヘゲモニーの時代」を参照。
*11:「リスク社会における公共的決定」を参照。