トクヴィル『アメリカのデモクラシー』
A.トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(第一巻上下・第二巻上下、松本礼二訳、岩波書店(岩波文庫)、2005/2008年)は、アメリカ論として、デモクラシー論として、社会学作品として、政治学作品として、エッセイとして、眩いほどの名著です。10か月に満たない滞在期間で、これほど広範な事象について、これだけ鋭敏かつ深遠な検討と洞察を加えているこの青年貴族には、感嘆を覚えずには居られません。150年以上前に書かれた古典でありながら瑞々しさを感じさせるその文面に触れると、巧みな訳業に敬意を覚えるとともに、この作品が長い間それほど熱心に読まれていたわけではないという事実に対して信じられない思いがします。久し振りに「こう在りたい」と思わせる知性の形に出会えて嬉しかったです。以下、いくつかの部分を引用します。単純に面白い記述は他にいくらでもあるのですが、ここでは個人的に重要だと感じた箇所に限定しました。それでも大量になってしまい申し訳ありませんが、どれも興味深いのでご容赦下さい。
地方自治について
地方自治の制度はあらゆる国民の役に立つと思う。だが社会状態が民主的な国民ほど、この制度を本当に必要としている者はないように見える。
貴族制にあっては、自由の中にもある種の秩序を保つことがいつでも期待できる。
支配層にとって失うものが多いので、秩序は彼らにとって重大な関心の対象である。
同様に、貴族制の中で人民はゆきすぎた専制から守られているといえる。というのも、専制君主に抵抗する備えのある組織された諸力がそこにはいつもあるからである。
地方自治の制度を欠く民主制はこのような弊害に対していかなる防壁ももたない。
小事において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうして大事における自由を支えさせることができよう。
一人一人が弱体で、しかもいかなる共通の利害による個人の結合もない国で、どうして暴政に抵抗できよう。
放縦を嫌い、絶対権力を恐れる者は、地方の自由の着実な発展を同時に望むべきである。
さらにまた、私の確信するところでは、社会状態が民主的な国民以上に、行政の集権の軛に囚われやすい国民はない。
この結果に与る原因はいくつかあるが、なかでも重要なのは次のものである。
こうした国民の恒久的傾向として、統治権の一切は人民を直接に代表する単一の権力の手に集中される。なぜなら、人民のほかにはもはや、大衆全体の中に埋没した平等な個人しか見出せないからである。
そして、一つの権力が統治のあらゆる権限をすでに備えたとき、これが行政の細部にまで立ち入らないでいることはたいへん難しく、長い間には必ずといってよいほどその機会を見出すこととなる。その証拠はわが国の過去にある。
[第一巻(上)、153-154頁]
執政権について
世襲の君主政には大きな利点がある。ある家系の私的利害が国家の利害に一貫して緊密に結びついているので、国家の利害が放置されることは一時たりとも絶対に生じない。このような君主政において国務が他より巧みに処理されているかは分からないが、少なくともそこには、善かれ悪しかれ能力に従って国務に携わる人間が誰か存在する。
ところが、選挙制の国家では選挙が近づくと、そのずっと前から、統治機構はいわばそれ自体で機能するほかなくなる。たしかに法律の工夫で、選挙を一挙に短時日で行い、執行権に空白を残さないようにすることはできようが、それにしても、立法者の努力にもかかわらず、人々の精神に空隙は残るであろう。
選挙が近づくと、執行権の長は待ち構える選挙戦のことしか考えない。もはや彼に未来はない。何事も企てず、次の人は何を成し遂げるであろうかと無気力に探るだけである。…[中略]…
執行権が国務の運営に大きな位置を占めるほど、また、その日常活動が重大にして必要であればあるほど、このような事態はより一層危険である。執行権による統治、またそれ以上にその管理に慣れた国民にあっては、選挙は深刻な混乱を生まずにはいないであろう。
合衆国では、執行権の活動が鈍っても不都合はない。その活動はもともと弱く、限られているからである。
政府の長が選挙で選ばれる時には、そのために国家の内政、外交の不安定という欠陥がほとんどつねに生ずる。これこそこの制度の主要な弊害の一つである。
だがこの欠陥が目立つかどうかは、選挙で選ばれる公職に権力のどの部分が与えられているかによる。ローマでは、執政官が毎年変わったにもかかわらず、政治の原則にいささかの変更もなかった。というのも元老院こそ支配的な権力であり、元老院は世襲の団体だったからである。ヨーロッパの君主政の多くでは、もし国王を選挙することになれば、王政は新たな選挙のたびに様相を一変するであろう。
…[中略]…
執行権の役割を小さくしても無駄であり、法がこれにどんな場所を与えているかに関わりなく、執行権が大きな力を持つ事柄が一つある。対外的政治がそれである。外交交渉は、着手した人間が一人で継続しないとなかなか成果があがらない。
国のおかれた立場が難しく危うくなればなるほど、外交方針の継続性と一定性が必要になり、国家元首を選挙で選ぶことはより危険なものとなる。
アメリカ人の世界全体に対する政策は単純極まりない。他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としないといってもほとんどおかしくない。彼らの独立はおよそ脅威にさらされることがない。
だからアメリカ人において執行権が限定されているのは、法律のためであると同時に状況のせいでもある。大統領がしじゅう意見を変えても、国家が被害をこうむったり、滅びることはない。
[第一巻(上)、207-211頁]
その後に状況は変わり、大統領の権限は膨張していったわけですが、それはまさに対外政治ないし戦争を契機とするものでした。その経緯については、油井大三郎『好戦の共和国アメリカ』や阿川尚之『憲法で読むアメリカ史』などを読むとよく解ります。
外交について
私自身は、次のように言うことに抵抗を覚えないであろう。すなわち、民主主義の政府が他の政府に比べて決定的に劣ると思われる点は、社会の対外的利害の処理である。民主政治にあっても、経験を積み、習俗が落ち着き、そして教育が広まれば、ほとんどどんな場合にも、良識と呼ばれる日常の実際的知識、生活上の小さな出来事を処理するあの知恵はいずれ形成されるものである。社会の平常の営みには良識で十分である。そして教育が行き渡った国民においては、民主的自由の内政への導入が生む利益は民主主義の政府の誤りがもたらすかもしれない害悪より大きい。だが国家間の関係はつねにそれでは済まない。
外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要でなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される。民主政治は国家の内部の力を増すには好都合である。それは生活のゆとりを拡げ、公共心を育み、社会のさまざまな階級の遵法精神を強める。だがこれらのことはすべて、一国民の他国民に対する立場には間接的な影響しかもたない。ところが大事業の細部を調整し、計画を見失わず、障害を押して断乎としてその実現を図るということになると、民主政治はこれを容易にはなしえまい。秘密の措置を案出し、その結果を忍耐強く待つことは民主政治にはなかなかできない。これらはある種の個人や貴族がとくに有する資質である。まさにこれらの資質こそ、個人の場合と同様、一国の人民をもいつかは支配者の地位に就けさせる資質なのである。
逆に、貴族制に生来の欠点を注意してみると、それらの欠点から生じうる帰結は国家の対外問題の指導にはほとんどなんら目立った障害でないことに気づくであろう。貴族が非難される根本的な欠陥は、大衆のためではなく自分のためにしか働かぬという点である。しかし、外交政策では、貴族が人民と別の利害を持つことはきわめて稀である。
…[中略]…
貴族制ほどものの見方が動かぬものはない。人民大衆は無知あるいは情念に引きずられることがあり、国王の心を捉えて計画をためらわせることもできる。第一、国王はいずれは死ぬ。だが貴族団体は丸め込むには人数が多すぎ、思慮に欠けた情熱に簡単に酔うには少人数にすぎる。貴族団体は固い信念と広い知識をもち、しかも決して死ぬことのない一個の人間である。
[第一巻(下)、107-110頁]
現代からすると、ここでの貴族は官僚などに読み替えることが可能でしょうか。外交と国内世論の関係については、藤原帰一「外交は世論に従うべきか――民主主義の成熟と対外政策」『論座』2008年3月号(通号154号)が参考になります。
法律家について
民主政治は法律家が政治的な力を揮うのに好都合なものである。金持ち、貴族、君主が政府から排除され、法律家はいわば全権をもってそこに登場する。このとき法律家は、人民が人民の外から選ぶことのできる唯一有能な識者だからである。
すなわち、法律家は本来趣味によって貴族や君主に惹かれるとしても、利害の点では本来人民の方に引き寄せられる。
つまり、法律家は民主政治を好むが、民主主義の傾向に染まったり、その弱点を見習うことがない。これこそ法律家が民主主義によって力を得、しかも民主主義に対して力を揮う二重の理由である。
民主制において人民が法律家を警戒しないのは、人民の大義に仕えることが彼らの利益になると分かるからである。人民が憤ることなく法律家の言に耳を傾けるのは、彼らに下心があると思わないからである。事実、法律家は民主主義が自ら立てた政府を覆そうとは望まない。ただこれを、民主主義のものとは違う傾向、それとは異質な手段によって指導しようと努めるのである。法律家は利益と生まれでは人民に、習性と趣味では貴族に属する。彼はこの両者の自然の結び目、二つをつなぐ環のごときものである。
法曹身分こそ、民主主義本来の要素と無理なく混じり合い、首尾よく、また持続的にこれと結びつくことのできる唯一の貴族的要素である。法律家精神と民主的精神とのこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わないし、人民の権力の増大に比例して法律家の政治への影響力が増さないとすれば、今日、共和政体がその存続を期待しうるとは信じられない。
[第一巻(下)、174-175頁]
同様に、法律家をそのまま読むか、何かに読み替えるか、考えさせられます。
政体と主権について
こう言ったからといって私が、自由の保持のために、一つの政体の中にいくつかの原理を混合して、相互に本当に対立させうると信じているわけではない。
混合政体と呼ばれるものを、私はつねに一つの幻想と思ってきた。実際、混合政体というものは、(人がこの言葉に付する意味においては)存在しない。どんな社会にも、他のすべてを支配する一つの行動原理が結局のところ見出されるからである。
この種の政体の例として特に前世紀のイギリスが引き合いに出されたが、この国は内部に民主制の要素が多分にあったとはいえ、本質的には貴族制の国家であった。なぜなら、貴族が最後には必ず優位に立ち、公共の問題を思うままに処理できるように法と習俗がつくられていたからである。
誤謬の原因は、上位身分と人民との利害の対立がイギリスでは絶えなかったので、この争いのことばかり考えて、肝腎の争いの結果に注意を払わなかったところにある。ある社会が本当に混合政体をとるに至るとき、すなわち相反する原理に真っ二つに分かれるならば、その社会は革命に入るか、でなければ解体してしまう。
それゆえ私は、社会のどこかに他のすべての力に勝る一つの力がなければならぬと考えている。だが、この力の前にいかなる障害もなく、その歩みを遅らせ自制を促すこともできないとすれば、自由は危機に瀕すると思う。
…[中略]…
合衆国で組織されたような民主主義の政府について私がもっとも批判する点は、ヨーロッパで多くの人が主張するように、その力が弱いことではなく、逆に抗しがたいほど強いことである。そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく、暴政に抗する保障がほとんどない点である。
合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか。世論にか。多数者は世論が形成するものである。立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する受動的な道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利をもったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるをえないのである。
こうした状態とは逆に、立法部が多数の代表でありながら、必ずしも多数者の情熱の虜にはならぬように組織され、執行権には固有の力があり、司法権は他の二権から独立している、そういう状態を想定してみよう。それでも民主主義の政府であり、しかも暴政の危険はほとんどないであろう。
[第一巻(下)、148-150頁]
混合政体など存在し得ないという断言は興味深いなぁ、と。共和主義からはどう反応があるのでしょうか。後半は多数者専制への危惧。J.S.ミルに影響を与えたというのはあまりにも有名な話。
結社について
現代では、結社の自由は多数の暴政に抗する必要な保証となっている。合衆国では、一度ある政党が政権を握ると、すべての公権力がその手に落ちる。個人的な友人があらゆる公職に就き、あらゆる機関の権限をほしいままにする。反対党のもっともすぐれた人物も権力との境界を突破することはできないので、権力の外側に地歩を固められる場がなければならない。少数派はその精神の力のすべてを挙げて、多数派の物質的力による抑圧に抗さねばならぬ。これは恐るべき毒を別の毒をもって制することである。
私には多数の全能がアメリカの共和国にとって非常に大きな危険と思われるので、これを制限するために用いられる危険な手段も、まだしも良いものに見える。
私はここである考えを述べたいのだが、これは別の箇所で地方の自由を論じたときに述べたことを思い出させるものである。すなわち、党派的専制や君主の恣意を妨げるのに、社会状態が民主的な国ほど結社が必要な国はない、という考えがそれである。貴族制の国民では、二次的な団体が権力の濫用を抑制する自然の結社を形成している。このような結社が存在しない国で、もし私人がこれに似た何かを人為的、一時的につくりえないとすれば、もはやいかなる種類の暴政に対しても防波堤は見当らず、大国の人民も一握りの叛徒、一人の人間によってやすやすと制圧されるであろう。
[第一巻(下)、44頁]
ヨーロッパには多数派とあまりにかけ離れ、その支持を得ることをとうてい期しがたい党派が存在する。しかもこれらの党派が、自分では多数派と戦うに十分な力があると信じている。この種の党派が結社を形成すると、それはもはや説得しようとはせず、戦闘しようとする。アメリカでは、多数派と意見がかけ離れている人は多数派の力の前に何事もなしえない。それ以外の人はみな多数派になれると思っている。
それゆえ結社の権利の行使は、大きな党派が多数派になる可能性が小さければ小さいほど危険になる。合衆国のように意見の違いにニュアンスの違いしかない国では、結社の自由にほとんど制限がなくともかまわない。
…[中略]…
だが合衆国において政治的結社の暴力を和らげるのに与るすべての原因のなかでも、もっとも大きな原因はたぶん普通選挙であろう。普通選挙が認められている国では、多数派に何の疑義も挟めない。投票していないものの代表を正当に標榜することはどんな党派にもできないからである。結社が多数を代表していないことは、それ自身を含めて誰もが知っている。結社の存在自体がこれを示している。なぜなら、もし多数を代表しているならば、法の改正を要求する代わりに、自分たちの手で変えてしまうはずだからである。
[第一巻(下)、47-48頁]
近年トクヴィルが読み直されている最大の理由は結社論ですが、私はアソシエーショニズムやコミュニタリアニズムへの連想よりも多元主義の理解との繋がりにおいて、興味深く読みました。この点においては『ザ・フェデラリスト』におけるマディソンの党派論などと対照させて読む必要があるかと。
陪審について
陪審の制度は、陪審員をどの階級から選ぶによって、貴族的にも民主的にもなりうる。だがそれは、社会の実質的指導権を為政者ではなく、被治者ないしその一部の手に委ねるという点において、ある共和的性格をつねに保持するものである。
力は、いつの場合にも成功の一時的要素にすぎない。力の後にはやがて権利の観念が生ずる。敵を戦場に撃つよりない羽目に追い込まれた政府は、いずれ打倒されるであろう。それゆえ政治の法制の真の保障は刑法にあるのであり、もしこの保障が欠ければ法律は遅かれ早かれ力を失うであろう。したがって、犯罪者を裁く人間こそ真に社会の主人である。ところで、陪審の制度は人民自身、少なくともある階級の市民を裁判官の席に着かせるものである。陪審の制度は、だから実際に、社会の指導権を人民あるいはこの階級の手中に委ねる。
…[中略]…陪審制はなによりも一つの政治制度であり、人民主権の一つのあり方と考えなければならぬ。人民主権を退けるならば、全面的にこれを排すべきであり、そうでないならば、人民主権を確立した他の法律に陪審制をも一致させるべきである。…[中略]…
陪審制は市民一人一人をある種の司法職に任ずる。すべての人に、社会に対して果たすべき義務のあることを感じさせ、また統治に参加しているという実感を与える。自分自身の仕事とは別の事柄への関与を強いることで、社会の錆とも言うべき個人的利己主義と戦うのである。
陪審制は人民の判断力の育成、理解力の増強に信じられぬほど役立つ。私の見解では、これがその最大の利点である。それは無償でいつでも開いている学校とみなすべきである。陪審員が一人一人そこに来て自分の権利を学び、上流階級の中でももっとも学識に富み開明的なメンバーと日々交わり、法律を実用に即して教わる学校、弁護士の活躍、判事の見解、さらには原告被告の熱意を見ているうちに、法律の内容が陪審員にも理解できるようになる、そういう学校なのである。アメリカ人の実用的知性と政治的良識とは、主として彼らが民事における陪審制に長い間慣れてきたことに帰すべきだと思う。
陪審制が訴訟の当事者のためになるかどうか、私には分からないが、訴訟を裁く者のためにはたいへん役に立つと信ずる。私はそれを、人民の教育のために社会が利用しうるもっとも効果的な手段の一つとみなす。
[第一巻(下)、184-189頁。イタリックは原文傍点]
近年、陪審制の擁護者として言及されることの多いトクヴィルですが、実際、国民の司法参加の利点としてよく挙げられるポイントは既にほとんど押さえていたようです。多数者専制への危惧を表明しているところを見る限り、陪審制を無条件で賛美しているわけではないでしょうが、それでも人民主権の帰結として避け得ないと考えていたようではあります。ただ、民事刑事の問題や裁判の形式および捉え方の問題、習俗・文化の問題など、複雑な要素の絡み合いから個人的には未だ十分に把握しかねる部分なので、もう少し勉強をしないと何とも言えません。関連として、国民の司法参加や裁判員制度についての私の考えは「民主主義は裁判員制度を支持しない」に書きました。
ところで、「政治の法制の真の保障は刑法にある」の辺りのくだり、さらっと書いていますが、凄くないですか。
平等と権力について
境遇が不平等で、人々が互いに異なっていたときには、教養と知識が豊かで、抜きんでた知性を有する少数の人々がある一方で大衆は無知で考え方はおそろしく狭かった。貴族制の時代に生きる人々は、だから自然に、理性に優れた一人の人間、一つの階級に導かれて自分の意見を決め、全体の無謬性を認める気にはまずならなかった。
平等の世紀には逆のことが起こる。
市民が互いに平等で似たものになるにつれて、ある特定の人間、ある特定の階級を盲目的に信ずる傾向は減少する。市民全体を信用する気分が増大し、ますます世論が世の中を動かすようになる。
民主的諸国民にあっては、共通の意見だけが個人の理性の唯一の導き手になるというだけではない。そうした国民にあっては他のいかなる国民に比べても、それは限りなく大きな力をもつ。平等の時代には人々はみな同じだから、お互いに誰かを信用するということが決してない。だが、みな同じだからこそ、人々は公衆の判断にほとんど無限の信用をおくことになる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にないとは思えないからである。
民主的な国で人は周囲の人間一人一人と自分を比べれば、誰に対しても平等だと誇らしく感じる。だが仲間全体を思い浮かべ、この総体の傍らに自分をおいてみると、自分の小ささと弱さにたちまち打ちのめされる。
平等は人を同胞市民の一人一人から独立させるが、その同じ平等が人間を孤立させ、最大多数の力に対して無防備にする。
[第二巻(上)、29-30頁]
一国の人民において境遇が平等になるにつれて、個人はより小さく見え、社会はより大きく映る。あるいはむしろ、市民の誰もが他の人と同じになって、群衆の中に姿を没し、人民全体の壮大な像のほか、何も見えなくなる。
このことは、当然、民主的な時代の人々に社会の特権を極めて高く見る見解と個人の権利を大変低く見る考えを植えつける。彼らはいともたやすく社会の利益がすべてで個人の利益は無であると認めてしまう。社会を代表する権力はこれを構成する人間の誰に比べてもより多くの知識と知恵を備えており、市民一人一人を掌握し指導することは権力の義務であり、権利であるということを彼らは進んで承認しがちである。
…[中略]…
今日の人々はだから想像されるほど分裂していない。主権を誰の手に委ねるべきかを知るために絶えず論争しているが、主権の権利と義務については容易に意見が一致する。誰もが政府を単一、単純で、神の如く、万物を創造する権力のイメージで思い描いている。
[第二巻(下)、215-218頁]
民主的な世紀には、何人も仲間に手を貸す義務を課されず、仲間から大きな助力を期待する権利もないので、誰もが独立にして弱体である。独立と無力というこの二つの状態は別々に考えても混同してもならないが、デモクラシーの市民に全く相反する本能を与える。独立は彼の心を同等者の中での自信と誇りで満たすが、時々、彼は自らの弱さのために他人の援けを得る必要を感じる。だが周囲の同等者はみな無力で冷淡なので、誰からも助力を期待できない。これが極端になると、彼は当然のことながら万人が小さくなる中で一人聳え立つあの巨大な存在に視線を向ける。必要ととりわけ欲求によって彼は絶えずこの存在に向かい、最後にはこれを無力な個人を支える唯一不可欠の支えとみなすに至る。
このことは民主的諸国民にしばしば起こること、すなわち、そこでは上位者の存在に我慢のならない人々が甘んじて一人の主人を戴き、かくて人は傲慢にして同時に卑屈であるということを理解させる。
…[中略]…
民主的世紀の人間は自分と同等の隣人に従うことに極度の嫌悪感を覚えざるを得ない。彼は隣人が自分よりすぐれた知識をもつことを承認しない。隣人の正しさを疑い、その力に猜疑の目を向け、彼を恐れ、かつ蔑む。ことあるごとに、二人とも一人の主人に共通に服していることを彼に感じさせようとする。
これらの自然の本能に従ういかなる中央権力も平等を愛し、平等を奨励する。平等はそのような権力の作用を著しく容易にし、これを拡大し、確実にするからである。
[第二巻(下)、221-223頁]
これらの箇所は、「非人格的権力再考」で引用した宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』の文章に対応するところです。関連として、「自由主義と非人格的権力」を参照のこと。あるいは、「自由と管理――パノプティコンと現代社会」を参照してもよいかもしれませんが。
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